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キャディラックの伝統・歴史 「企業沿革」 キャディラックは、1902年に、フォードやオールズモービルで働いていたすばらしい技師であるヘンリー・マーティン・リーランドによって、設立された。彼の最初の自動車は、念に単純な短気筒の小型自動車だった。しかし、すぐに、より洗練された4気筒モデル、1909年から1915年の成功したキャディラック「30」に発展させた。リーランドの、銃メーカーとしての経験から生まれた、精密な職人の技能と標準化された部品に対する情熱は、初期の段階から、はっきり現れていた。1908年、英国で3台のキャディラックが解体され、その構成部品を良く混ぜ、それから、パーフェクトに走る3台の自動車に組み立てなおした。この偉業が、キャディラックに始めてのデュアートロフィーをもたらし、このブランドの今でも長く、そして良く知られている「世界の規格」というスローガンのきっかけとなった。 翌年、キャディラックは、創業したばかりのゼネラルモーターズの一部となった。その当時の中の上の価格帯の車として、直接には、パッカードやピアス ・アローとは競合しなかったが、常に高品質のアイテムであった。キャディラックの先駆的な1915年V-8は、滑らかさとパワー、信頼性に対して新しい基準を設定した。そして、1910年代後半から、このブランドがラグジュアリーカーだけへと変わった20世紀の終わりまで,確実に売り上げは,増えていった。 もしも、GMの一部でなかったら、キャディラックは、たとえどんなにすばらしくても、大きく高価な自動車を、ほとんどの人が買う余裕がない−あるいは覗き込まれたくない−ような時代だった大恐慌の時に、だめになっていたかもしれない。中価格帯の製品で生き延びなければならなかった、独立企業のパッカードと違い、キャディラックは、GMの規模と莫大な財力によって守られた。そしてその時にはすでに、その部門は1927年に売り出されたラ・サルという中価格帯の車を持っていた。これら全てが、キャディラックが、超ラグジュアリーカーを僅かしか作っていないそのときに、その一流のイメージを失うことなく、「困難な時代」に耐える助けとなった。 その中で、主要なものは、豪華な1930年の予告なしのザ・シックスティーンだった。それは、オーバーヘッド・バルブ、回転力320フィートポンド165馬力を生み出す452立方インチエンジンを積んでいた。大型車の時代にあって本物の大型車であったシックスティーンは、5350ドルの2人乗りのロードスターから9800ドルのタウンブルーアムまでの範囲で、外観で異なる33種のモデル、サブモデル、装飾のバリエーションを手に入れることができた。典型的な例は、15セントガロン のガソリン対して8マイル、1クォートオイルに対し150マイルをもたらすことができた。加えて、経済速度は70で、最高は時速90マイル走ることができた。しかし、やみくもな性能は、その得てとするところではなかった。むしろ、ザ・シックスティーンは、パッカードやピアレス、ピアス・アローの雲の上の領域にキャディラックを持ち上げようと意図されたのだ。すばらしい贅沢感と最小限度のギアチェンジでスムーズで楽なパワーを提供することで、それは成功した。キャディラックは、その性能を、「切れ目のない流れ…絶えず、最大量の能率…適応性があり…即座に反応する」と宣伝した。 ザ・シックスティーンができてたった9ヶ月で,キャディラックは,別の多シリンダー・エンジン,排気量368立方インチのV12を売り出した。本質的には,4シリンダー少ない V16で,135馬力で回転力285フィートポンドを生んでいた。それが動力を供給する車もまた,ザ・シックスティーズと同じ大きさだったわけではない。巨大な全長148インチの代わりにキャディラックエイトの140インチのホイールベースに載っていたのだ。予想通り,ザ・ツエルブ もまた,同じだけ早くはなかったが,そのフリー・レブエンジンは,滑らかさで,そしてパワーでさえ有名だった。そしてそのパワーは,十二分であった。ロードスターは,標準の後車軸比率 でおよそ時速85マイルを出すことができた。また,ほとんどのツエルブは,一日中,70マイルの経済速度で走ることができた。もちろん,ツエルブは,ザ・シックスティーンより安かった−ずっと−そして,3795ドルから4985ドルの範囲で,11種類のボディの選択肢を提供していた。 しかし,それらの改良された性能や堂々たる大きさにもかかわらず,多シリンダーのキャディラックは,縮小する 大恐慌の市場では,時代錯誤だったし,大量に売れるものは,なにもなかった。そのピークは,まさに3250台のシックスティーンと5725台のツエルブの出た1930−31年だった。生産量は,32年がまずまずで,それから,それぞれ年間およそ700と400台に落ちた。両方とも,1935年以後,製造中止となったが,翌年,もう一度,LヘッドV16で,試してみた。排気量431立方インチ,185馬力で,このエンジンは,以前のオーバーヘッド・バルブ型より小さく軽かったけれど,力強かった。しかし,その最後の年である1940年までに508台に装備されただけである。 これら偉大なキャディラックがうまくいかなかった理由は二つある。前述したように,8気筒以上の信じがたいほどの高価な車は,30年代初頭の多くの人々には,社会的にふさわしくないように思われた。当初の活況後,これらのモデルは,もっと安くそして派手ではなく,しかし,まったく劣っていないキャディラックエイツの顧客に避けられたのだ。あとで,大きなエンジンは,単純に,進歩する技術によって時代遅れであった。精密連接棒軸受け の導入が,12気筒より少なくても,打音やエンジンの高速時の磨耗を消滅することを助けた。それで,キャディラックの購入者にとって,エイトより大きいツエルブやシックスティーンを選ぶ理由はほとんどなかった。 キャディラックにとって幸運なことに,そのV-8ラインは,30年代を通し,終始一貫,かなり良く売れた。モデルイヤーの生産量は,1930-31年は, 10,000台程度で,1932-33年には2000-3000台に突然下がり,それからすばやく取り戻した。1936年には,低価格の60シリーズを発売し,V-8の生産量は,10,000台を超え,1939年までには,13,000を超えた。この大いに称賛に値する成績は,信頼できる鋳鉄製のIヘッド型エンジン,競争価格,ボディスタイルの選択肢の広さによるものだった。キャディラックの30年代初期のV-8は,1928年に導入された排気量341立方インチの装置に基づいていた。1930−35年には,排気量353立方インチの大きさになり,95-130正味馬力を生み出した。1936年には,完全に再設計しなおした135正味馬力の346が,それに取って代わった。その年の新しい60シリーズは,排気量322立方インチバージョンを使用し,それから346を採用した。この重んじられた動力装置は,1949年にキャディラックがショートストロークオーバヘッドバルブのV-8を打ち出すまで製造され続けることになる。Lヘッドは,限界があるとはいえ,すばらしい性能と程よい経済性を生んだ。比較的軽い1938−39年モデルは,時速100マイル近く出すことができ,15−16秒で0-60マイルの加速することができた。第二次世界大戦前の4500ポンドのラグジュアリー戦列艦のための大した偉業であった。 ラグジュアリーのライバルたちと違い,キャディラックは,その車体の大部分を,社内の,GMが手に入れた,二つの尊敬されるコーチメーカーフィッシャーとフリーとウッドによって設計し,組み立てた。「キャディラックは,また,シャシーをかなりの数の独立した車体製造者に供給していた。この申し合わせが,ヘンリー・アールに,ラジエーターとボンネットだけのかわりに,車のすみからすみまで調和する外見を維持することを可能にさせた。「古典的な」キャディラックのスタイリングは,疑う余地のないほど,その贅沢な,薄いコラーの垂直のラジエーター,美しく曲線を描くボンネットと流れるようなラインによって,1930−31年モデルの典型だった。1930年のフィッシャーラインは,3300−4000ドルの7タイプに渡った。フリートウッドカスタムモデルは,総計14にもなり,3450から5145ドルの値段がつけられていた。もっともエレガントだったのは,ほっそりしたクロームドアとフロントガラスの盛り上げ飾りを持つ「マダムX」−当時の舞台劇にちなんだ−だった。 横帆のような角っぽい装備のスタイリングは,1932年の比較的丸みがあるキャディラックが現れて,次第に消滅していった。しかし,本当の流線型にすることは,1933年モデルまで,はっきり表れなかった。これらがベーシックな32年の車体を残す一方,アールは,スカート付きフェンダーや,V字型のラジエーターやもっと後方に曲げたフロントガラスといったアイテムで,外見を現代的にした。注目に値する新機軸は,「隙間風のない換気装置」と呼ばれたフロントドアの三角窓で,その年,GMの姉妹部門と共有していた。30年代前半のキャディラックは全て,ファンによって,クラシックカー時代末期の最高のデザインだと長く評価されている。1934年のスタイリングは,1933年のシカゴワールドフェアで紹介されたエキゾチックで実験的な「空気力学」ファストバック・クーペのラインに従って,まったく新しくされた。アールは,いまや完全に,まっすぐ立ったフォームからポンツーン(箱舟型)フェンダー,傾斜させたラジエーター,「弾丸型の」ヘッドライト,速そうな後部デッキの領域に移っていた。彼は,また,おそらく複葉機の形状から触発されたであろう新奇な二つの部分からなる前後バンパーを思いついた。が,それは,壊れやすく,人気がないことが判明し,1シーズン限りで中止となった。1935−36年モデルは丸みがすっかり角っぽさに勝っていたので,比較的ずんぐりしていた。 アールの秘蔵っ子のウイリアム・L・ミッチェルが, 124インチホイールベースの60シリーズに追加するシックスティスペシャルセダンを立案した1938年には,再びすっかり変わった。四角いが波打つエレガントでキャディラックの割には非常に小型なミッチェルの作品は,クロームエッジのサイドウィンドー,後ろ側が四角いフェンダー,隠された踏み板,他の60シリーズ−1クーペ,1セダン,2コンバーチブル−より3インチ長いホイールベースに載った低い輪郭で,他とは少し異なっていた。それは,史上最高の偉大なデザインのひとつと長く判断されてきている。 キャディラックの1939年の製造は,10,000ユニットで,国の不景気に苦しんだ38年の総計よりも良かった。穏やかなマイナーチェンジが行われ,エンジンは変化なかったが,キャディラックがラグジュアリー分野を,一面に覆った。2090から2315ドルの他とまったく別なシリーズとしてシックスティスペシャルが復活する一方,新しい126インチホイールベースの61シリーズが1610から2170ドルの値段で,4モデルを提供した。75シリーズは,キャディラック史上最長の全長141インチのホイールベースにのったフリートウッドのいつものやりすぎをリストに入れていた。 1930年代は,キャディラックでは大きな技術的進歩を経験した。1929年にガチャガチャと音を立てない「同期かみ合い式」変速機を導入し,この部門は32年には引き続いて「3倍静かな」同期かみ合い式(前進全3速用はすば歯車)を導入した。「隙間風のない三角窓」と真空倍力ブレーキが,1933年に登場し,独立フロント・サスペンションは,34年だった。1935年には,GMのオールスチール砲塔型屋根 が生まれ,そのため織物の屋根のはめ込みがなくなった。油圧ブレーキは,1936年に,シックスティーン以外の全てに登場した。コラムシフトとオプションの方向指示器が2年後に現れた。 前述のとおり,1938年に「第2のシリーズ」のシックスティーンが登場し,1939−40年にキャディラック軍団をリードした。その新しいショートストロークエンジンは,以前のV16より小さかったが,同じ185正味馬力を作った。キャディラックのV-8のように,それは,9の主軸受け,分離した多岐管,水ポンプ,各シリンダーバンク用分配装置はもちろん,頑丈な鋳鉄構造とデュアル・キャブレタという機能も持っていた。シャシーは,75シリーズと共有し,車体のスタイルは,2クーペ,1コンバーチブル,分割窓付き/なしツーリング・セダン,1「トランクバック」コンバーチブル・セダン,正式な5人あるいは7人乗りのセダン,いくつかの7人乗りセダンであった。大きな違いは値段だった。1940年のベーシックな5人乗りのセダンは,V-8が付いて1745ドルで売られたが,V16だと5140ドルだった。キャディラックV-8は,どこででも最もスムーズなエンジンのひとつだったので,割増金は,もはや十分な根拠を示さなかった。売り上げが,1930−37年よりも良くなかったので,絢爛たるシックスティーンは,1940年を最後に製造を中止された−もう2度と見ることのなかった偉大な時代の遺物である。 キャディラックの重要なエンジンの発展のいくつか−そして最も美しい自動車のいくつか−が,40年代に現れた。ビューイックのように,キャディラックも,1940−41年にマイナーチェンジをし,それから42年にまったく新しいスタイリングを発表した。これが,第二次世界大戦後に民間の自動車製造が再び始まったときに,良い市場の情勢を残すことになった。 1940年のほとんどのキャディラックは,比較的地味だった。フロントは,シンプルな横木を渡しただけのグリルで,ほとんどシボレーのようだった。例外は,華麗なシックスティーンで,1937年に初めてお目見えし,まもなくキャディラックのなくてはならないものとなった枡形ルーバーのあるラジエーターが装備されていた。その年,ほとんどのデトロイトの車がそうであったように,全てのモデルが,シールド・ビーム・ヘッドランプを装備していた。 1940年に, 90と75シリーズの下に位置づけられたのは,138インチホイールベースを持つ新しい72シリーズだった。少しモデル数は少なかったが,低価格だった(2670ドル−3695ドル)。印象的でよくデザインされていたが,もっと豪華な75シリーズとの競争で売り上げが限定されたため,1年間だけのラインとなった。しかし,75シリーズとシックスティーンを勘定に入れても,1940年のホイールベースの長い車は,キャディラックは,2500台を少し超えるだけしか製造しなかった。 波打つシックスティスペシャルは,1939年に提供された同じ4つのモデルに,マイナーな付加機能を加えて戻ってきた。めったに注文されない(1941年の終わりまでで約1500だけの取り付け)が,予言的な新しいオプションは,スライドする金属製サンルーフ(「サンシャイン砲塔型屋根」と呼ばれた)だった。スタンダードシックスティスペシャル「タウンセダン」と分割窓インペリアルの両方に取り付けることができた。また,塗装した金属か皮革で覆った屋根が提供された「タウンカー」もあった。たった15台だけ,製造された。ほとんどの1940年シックスティスペシャルは,スタンダードセダン(4472台)だったのだ。 1940年の最も手に入りやすいキャディラックとしてのザ・61と置き換わったのは,もうひとつの未来のキャディラックのなくてはならないものとなる62シリーズだった。最初の商品群は,129インチホイールベースに載ったクーペ,ツーリング・セダン,コンバーチブル・クーペ,コンバーチブル・セダンから成っていた。値段は,1685ドルから1940ドルの範囲だった。その後の数年間は,ザ62は,1940キャディラックラインの中で,ダントツで最高の売り上げを獲得した。 その部門の1940年V-8は,その良く知っているモノ・ブロック構造(一体化したブロックとクランクケース),カウンター・ウェイトのついた3主軸受け,ダウン・ドラフト・キャブレタを残していた。重いけれども,信頼でき,非常にスムーズだった。39年には,ザ62とシックスティスペシャルでは,135馬力に,ザ72と75では140馬力に変わった。 重要で魅力的なデザインチェンジが1941になされ,キャディラックは,そのジュニアであるラ・サル ラインに取って代わるために61シリーズを復活させた。これは,リンカーン・ゼファーとパッカードのワン・テン/ワン・トゥエンティの成功を基にしたマーケティング上の決定だった。そしてそれはうまくいった。パッカードが,第二次大戦後,長く,中価格帯の車に頼り続けた一方,キャディラック(とリンカーン)は,もっぱらラグジュアリー領域へと戻った。このように,パッカードを犠牲にして,その「上品な車」の評判−そして売り上げ−を,支えた。 41年のキャディラックは,新鮮な外観を持った。センターにふくらみを持った複雑な枡形ルーバーだ。テールライトもまた,以前より目立ち,そして,ガス充填剤を閉じ込めていたが,別の機能が,長い寿命を運命付けた。シックスティーンと72シリーズの発売が,ホイールベースを3種類に減らした。ザ75には,136インチ,4つの新しい67シリーズのセダンは139インチ,その他は,126インチ。 1941年のキャディラックの大きな機械的ニュースは,ラグジュアリークラスでは,初めての,完全なシフトなしハイドラマティック駆動であった。オールズモービルによって展開され,1年早く導入されていたのだが,このすばらしい自動変速機は,1949年までには,全モデルに対するオプションであり続けた。また,以前より高い圧縮が,V-8を150正味馬力に引き上げた。これが,復活した車軸比と併合して,ほとんどの41年キャディに正真正銘の時速100マイルに到達させ,約14秒で60マイルまで加速できるように−当時は,印象的だった−した。 性能を改善され,新しいハイドラマティックといまだ広い値段の範囲(1345ドル−4045ドル)がキャディラックの41年モデルイヤーの生産量を新記録(66,130台)に押し上げた。それは,もっと高い割合であまり高くない自動車を売っていたパッカードより僅かに6700台ほど少なかっただけだった。利益のほとんどは,その低い価格にかかわらず,あらゆる点でキャディラックであった,復活した61によるものだった。しかし,ザ62が,劇的に上がり,シックスティスペシャルはたっぷり4100台の売り上げを記録し,新しい63シリーズ4ドアは,約5000もの客をひきつけた。 1942年のラインナップは,ほとんど同じだったが,大きな弾丸型前後フェンダーと,ファストバックルーフライン(41年の61シリーズでデビュー)によって特色付けられた62シリーズクーペのための「セダネット(小さいセダン)」と呼ばれた新しい外観を持った。不運なことに,この年のシックスティスペシャルは,他のキャディラックに少し似て,「特別」には程遠かった。キャディラックは,戦争によって1942年2月に製造が停止される以前の42年に,計16,511台を組み立てた。その部門は,それから戦車や航空機のエンジン,弾薬を,対日戦勝日まで,生産した。 民間の操業を再開するまでには,数ヶ月かかった。そのため,キャディラックは,1945年の終わり以前,62シリーズセダンをなんとか1142台製造し,モデルイヤー46年の総計は,29,194がやっとだった。これらは,42年以降,ほんの僅かなチェンジだけだったが,ザ63と67,分割窓のシックスティスペシャルは,すべて製造中止となった。残ったものは,1ファストバック61,ファストバックとノッチバック62,ただひとつのシックスティスペシャル,そして5種の75だった。47年は,ほとんど変わらなかった。長方形のパーキングランプが丸に(オプションで大きなフォグランプが指定されなければ),フェンダーのブロック体のネームプレートが筆記体に,前年に使われていた6本から5本の横木のグリルになった。有名な「ソンブレロ」ホイール・キャップが初めて提供された。戦後のインフレが,値段を150−200ドル高騰させた。しかし製造は,今や,戦前の調子を取り戻し,モデルイヤーでは,62,000台近かった。以前のように,ザ62が,40,000台弱で,そのほとんどを占めていた。 それから1948年に,「テール・フィンの年」がやってきた。戦前,デザイナーのアール,ミッチェル,フランクリン・Q・ハーシー,アート・ロスは,当時秘密だったロッキードのP-38「ライトニング」追撃戦闘機を見せられていた。戦争中,最小限度の人員で,その飛行機のデザイン要素によって触発されたアイデアを漠然と抱いていた。フロート型フロントフェンダー,コックピットのようにカーブしたフロントガラス−そしてテール・フィン。この影響は,他のGM部門でも見られた。たとえば,オールズは,P38のエンジン空気取り入れ口のモチーフを1949年の「フューチャラミック」のヘッドランプ斜面溝に取り入れた。しかし,フィンは,一番長く強い影響力を持った。「デザインの見地から,フィンは,車の後部に,初めて定義を与えた。それは,バックエンドを,前と同じくらい興味深くし,長年にわたりキャディラックのスタイリングが優良であることの証明となった」と,ミッチェルが後に語ったように。 テール・フィンは,キャディラックの見事な48年のデザインの頂上をなすアイデアで,ハーシーの下,デトロイト郊外の彼の工場で働く小さなチームによって遂行された。ブランドの伝統的なグリルは,以前よりシャープになったボンネットに補足され,より大きな枡形ルーバーにより,もっと強烈になった。屋根とフェンダラインは,曲線美でその角度から見ても美しかった。内部は,大きな「ドラム」ハウジングゲージとコントロールに支配された新しいダッシュボードがあった。しかしながら,これは,製作するのに複雑で,コストがかかるため,1年しか続かなかった。49年モデルは,よりシンプルな,グリルの形状をそっくり真似たインストゥルメントパネルを使った。これは,その後,8年間続くことになる。 モデルや,車体のスタイル,ホイールベースは,48年には,変えようとしなかったが,75シリーズについては,1950年まで新しい外観にならなかった(低い生産量が戦前の型の早い時期でのなしくずし償却を不可能にしていた)。49年のラインは,焼き直しであった−すばらしい二つの開発を除けば。ひとつは,クーペ・ド・ビルで,3497ドルで,62シリーズに仲間入りし,デトロイトで初めてのボリュームハードトップ として,この年の新しいオールズモービル98ホリデイとビューイック・ロードスター・リビエラと,栄誉を分かち合った。もちろん,この3つの背後にある目的は,閉じた車の快適さと堅実さを結びつけたコンバーチブルの風通しのよさだった。そして,その人気が明らかになり,50年代中ごろまで,デトロイトを支配する流行となっていった。(キャディラックは,あくまでも実験で,133インチのシックスティスペシャルのシャシーに載せた1949クーペ・ド・ビルを一台製造した。) 等しく,革命的だったのは,キャディラックのエキサイティングな新しい1949年オーバーヘッド・バルブV-8で,パッカード,リンカーン,クライスラーのインペリアルを直撃した,力強いワンツーパンチの2番目の強打だ。10年に及ぶ研究開発の製品であるこのエンジンは,エド・コール,ジャック・ゴードン,ハリー・バールによって設計された。彼らは,より軽く,(戦後使用が予想されたハイオクタン価の燃料を利用するために)高い圧縮を目指したのだ。これが,バルブの再配列,内径よりも短いストローク,V字型の燃焼室,スリッパスカート・ピストンを決定した。最後のものは,バイロン・エリスによって考案されたのだが,短い連接棒とこうした少ない往復運動をする量を考慮に入れて,クランクシャフト・カウンターウェイト間を少ない往復運動をした。 排気量331立方インチの大きさで,新しいV-8は,古い346Lヘッドより小さくなったにもかかわらず,10正味馬力多い160正味馬力となり,その効率を証明して登場した。Lヘッドのような鋳鉄仕事ではあるが,200ポンド近く軽かった。圧縮比は,7.5:1だったが,12:1まで押し上げることができた。それは,Lヘッドには,できなかった。オーバーヘッド・バルブは,より大きな回転力と,14%優れた燃費も与えた。それは,以前と同じくらい,持ちも良く,確実であった。そして,それは大きく広げる十分な余裕もあった−実にそのとおりだった。比較的軽い1949−50年62シリーズでは,約13秒で60マイルまで加速し,時速100マイルは楽に出せた。 このV-8のみごとさの更なる証明は,スポーツマンのブリッグ・カニンガムによりもたらされた。彼は,ストックに近い1950キャディラックを,フランスのル・マン24時間耐久レースに出場させた。サムとマイルズ・コリアに運転され,それは,全体では10位でフィニッシュしたが,他のラグジュアリーカーには,並ぶもののない成績だった。マルサンヌストレイト を時速120マイルで駆け下り,レース中の平均時速は,81.5マイルだった。カニンガム彼自身は,そのフランス人がル・モンストゥル(怪物)と呼ぶところの最新式のキャディラックエンジンを載せたスペシャルを運転した。コリア兄弟よりも速く走ったりもしたが,トップギアを失い,彼らの次にフィニッシュした。 このすばらしいV-8は,1950年まで贅沢の山の頂上にキャディラックを固定したクラス最高のスタイリングと併合された。331は,55年の終わりまで続くが,その間に,100正味馬力を超えるほどになっていった。 キャディラックのスタイリングは,50年代後半にクロームでぎらぎら輝くものになってしまうのだが,その基の48年デザインは,人気を保つほど十分優れていた。したがって大部分は,そのままで,1953年の終わりまで続いた。「伝統的な外観は,常に保たれた。グリルを変えたとしたら,テールエンドだけは残す。フィンを変えたら,グリルはいじくらない」と,ミッチェルがかつて記したように。 そして,そのとおりだった。1950年に新しいワンピースのフロントガラスと改良されたグリル,51年に,ヘッドランプ下の小さな補助グリル,53年にワンピースのリヤウインドーと暗示的な「ダグマール」フロントバンパー・ガード。しかしながら,キャディラックは,他のGM姉妹ブランドよりずっと早く,ファストバックに見切りをつけた。その1950年クーペをすべてクーペ・ド・ビル風のハードトップルーフラインでノッチバックの輪郭にした。 モデルも,53年の終わりまでは,大きく変えなかった。依然として売り上げの大きな割合を占めるザ・62は,4ドアセダン,ハードトップ・クーペ,クーペ・ド・ビル,コンバーチブルを提供し,すべて通常の126インチホイールベースだった。シックスティスペシャルは,単独のスーパーラグジュアリー4ドアのままだった。その独自のホイールベースで,1942−48年の133に対して130インチになっていた。75シリーズは,再び146.8インチのシャシーのリムジンとロングホイールベースセダンのいつもの編成を提供した。また,キャディラックは,1959年の終わりまで,年平均2000台のシャシーを,さまざまな車体製作工に供給し続けていた。 「入門レベル」の61シリーズは,1950年に,まだ存在していたが,そのセダンとビルに触発されたクーペは,(40年代の126から)122インチホイールベースに降格された。ここ(と75)では,まだマニュアルシフトが標準だったが,他のキャディは,割り増し料金なしで,ハイドラマティックが付いてくるようになっていた。ザ61では,まだクローム製の揺れる飾りがなく,比較的地味な内装だったが,比較的安くもあった(約575ドルも)。しかし,1950年には,100,000台以上も売り上げたため,キャディラックは,もはや,「プライスリーダー」を必要とはしなかった。そのため,ザ61は,1951年に生産中止になり,これをもって最後となった。 1952年,50周年記念で,キャディラックは,派手な限定版コンバーチブル,1953年62シリーズエルドラードを発売した。その年の新しいビューイック・スカイラインやオールズ98フィエスタのように,先ごろのGMモトラマショーで予告された機能を誇っていた。あつらえの内装,特別にカットした「パノラマの」広角前面ガラスガラス,スポーティーな「V字型の刻み目のある」ベルトライン,そして下ろした幌をカバーするキャンバスのブーツに変わって金属製のリッド。人目を引く作品であるエルドラードは,来るべきキャディラックの予告だったが,53年には532台しか製造されなかった。その理由は,主に,価格が7750ドルもの高みにあるせいだった。 モデルイヤー54は,よりパワーを持ち,より長く,より低く,より幅の広いキャディの到来を告げた。全て新しいGMのCボディは,流行の広角フロントガラス を身につけていた。シリーズ62では,ホイールベースが129インチと長くなり,75では,149.8インチになった。V-8は,230正味馬力まで押し上げられ,パワーステアリング,フロントガラスウォッシャがライン全体の標準となった。4段階パワーシートは新しいオプションだった。エルドラードは,標準の金色の装飾と純正品のワイヤホイールを持って,復活したが,スタンダード62コンバーチブルとさほど変わらなかった。そのため,53年よりもずっと安い4738ドルだった。予想されたように,モデルイヤーの売り上げは2150台まで上がった。55年には,3950台になり,その後,エルドラードが,コンバーチブルとして同じ基本価格の6556ドルの,ビアリッツを改名したセビリャ・ハードトップも含めることで倍になった56年には,65%も上昇した。 エルドラードは,1954年以後,再びもっと特色を持つ。とがった「サメ」のフィンを,テールライトの上方に出っ張らせたのだ。他のモデルは,前年からの小さなテールランプとフィンのモチーフを残していた。キャディラックの基本的な54年のスタイリングを,1955年と56年に革命的ではあるが効果的なマイナーチェンジを通して持続した。その56年に,その部門の最初の4ドアハードトップ,セダン・ド・ビルが生まれ,それはすぐに,クーペ・ド・ビルとスタンダード62ハードトップを合わせた売り上げとほぼ同じ売り上げを記録した。 部門の売り上げは,上昇し続け,55年の目標140,777台に届いた。しかし,それでもそれは,一時のグラフの平坦部であった。まったく新しい56年リンカーンや復活された57年インペリアルからの挑戦にもかかわらず,キャディラックは,ダントツで,アメリカのラグジュアリーの売り上げ一位を保った。リンカーンとインペリアルの生産量を合わせても,この時代は,年間40,000台を,決して超えることはなかった。キャディラックにおいては,それは,四半期の出荷量でしかなかった。 馬力は,ちょうど売り上げとともに上昇するかのようだった。1955年には,より高い圧縮と改良されたマニホールドによって250の基準に達した。エルドラードは,他のモデルではオプションの,デュアル4バレルキャブレタのおかげで,270正味馬力を誇っていた。1956年には,V-8は,初めて,排気量365立方インチに大きくされた。スタンダードモデルで285正味馬力,エルドラードで305正味馬力を作ることができるようになった。 定格馬力 は,圧縮比が10:1になった1957年,300/325だった。そして,ラインは再び車体を変えた。ずんぐりとして,しかし,1954-55年のショーカーでのオルレアン,エルドラード・ブルーアム,パークアベニューに触発された,まだ革命的なスタイリングで現れた。エルドラード・ブルーアムは,13,074ドルの価格で,ラグジュアリーの最高価格帯に届いていた。50年代のもっとも興味深いキャディラックのひとつである,この「コンパクトな」126インチホイールベースで,車体の低い,支柱のないセダンは,センターオープニングドアでハーリー・アールお気に入りのタッチのひとつブラシ研磨されたステンレススチールの屋根を特徴にしていた。標準仕様の4つ組みのヘッドライトは,その年のナッシュ,リンカーン,クライスラー社のいくつかの車と始めて共有した産業活動だった。 ブルーアムの最も興味をそそる機械的機能は,技術者のレスター・ミリケンとフレッド・カウインの作品である,エアサスペンションだった。商用の乗り物に1952年から使われたシステムを基に,これは,ドーム型の空気室とゴム製の振動板,ピストンから成る空気の「ばね」を各ホイールに使った。センターエアコンプレッサから送られ,積荷や道路状況に(バルブとソレノイドによって),滑らかで水平になるように,ドームが断続的に調節した。キャディラックのシステムは,「クローズ」ではなくて(外から空気を取り入れる)「オープン」だという点で,他のGM部門での「空気の乗り心地」オプションとは異なっていた。不運にも,コストと複雑さが利益の割合に高かった。エアドームは漏れ,取替えが頻繁だった。そのため,多くのオーナーがそのシステムを捨て,平凡なコイルばねを選んだ。翌1960年,キャディラックとGMは,エアサスペンションには,まったく見切りをつけた。 計704台となった2年後,ブルーアムは,完全にモデルチェンジし,組み立ては,イタリアのピニンファリーナに下請けに出した。59年には,99台だけ組み立て,60年には,ほぼ同じ101台だった。外観は格好よかったが(そして1961年のキャディラックのスタイリングの予告でもあった),これらは大きく(130インチホイールベース)て重い車だったので,あまり上手に作り上げられなかった(車体は,たくさんの充填剤でなっていた)。今や,これらは,コレクターズアイテムである。が,それを修復するのは,面白い仕事ではない。 多くのキャディラックは,1958年に,その年のGMのある意味典型的なモデルチェンジをした。しかし,最も派手なキャディは,クロームでずぶぬれになり,前の戦後モデルよりずっと悪くなった。全国的な不景気の方がスタイリングよりもおそらく責任はあるだろうが(それでもやはり,それは流行っていたのだから),売り上げは不振だった。121,778台で,1954年以来,モデルイヤーの生産は最低だった。しかしながら,定格馬力は,上昇し続けた。排気量365V-8は,335正味馬力のエルドラード以外の全てで310正味馬力出せるようになった。 未来を予想するように,ド・ビルは58年に62のサブシリーズになり,支柱のあるセダンは,消えていった。ザ62ラインには,リアデッキを広げたハードトップセダンも入った。全モデルに,クルーズ・コントロール,高圧冷却装置,2スピーカーチューニング機能つきラジオ,自動パーキングブレーキ解除が付いた。エルドラードは,センサーが雨粒を探り当てると,幌とサイドウィンドーが自動的に上がる「考える」コンバーチブルトップを導入した。この工夫は,おそらくエアサスペンションより少なかっただろうが,伝えられるところでは,わずかな生産だった。 もうひとつ別の新しいGM Cボディが1959年に登場した。クライスラーの復活した57年インペリアルに対する大急ぎの答えとして工夫された,より曲線美のキャディラックのスタイリングを持っていた。優越性は,巨大なフロントガラス,薄い部分のルーフライン,細い支柱をふくみ,こっけいなプロポーションの雲にそびえるフィン,銃弾型テールランプでエンドとなる。これらの行き過ぎを埋め合わせたのが,いくつかの価値があるサスペンションの変化,改良されたパワーステアリングであり,V-8は,排気量390立方インチに定めた。予想されるように,馬力はもう一度上がり,エルドラードでは,345に他のモデルでは,325まで上がった。 ド・ビルは,平屋根,4ウィンドウのスタイリングとカーブの多い6窓ルーフラインのハードトップセダン,それとハードトップ・クーペを1 種を提供して,他とまったく別なシリーズになっていた。62シリーズは,これらに加えてコンバーチブルがあった。また,支柱なし(57年からずっとそうだったように)は,豪勢なシックスティスペシャルだった。ホイールベースは,130インチになっていて,ライントップのエルドラード・セビリャ,ビアリッツ,ブルーアムを含む他の標準モデルと共有していた。 価格は,62シリーズで約5000ドル,エルドは,7400ドルに届きそうで,総じて59年より高かった。キャディラックは,1958年に,142,000台以上製造した。当時は,真価が認められてなかったが,これらのキャディは,今日,大きなサイズ,きらめく装飾,とりわけ,膨れ上がったフィンがあることで,50年代の典型として,引っ張りだこである。 キャディラックは,2シートのアイデアカーを50年代に披露した。最初は,54年エルドラードによく似た,しかし115インチのホイールベースだった1953年ル・マンで生まれた。その同じ寸法は,翌年のエル・カミノクーペとエスパダコンバーチブル使われた。それは,55年スタイリングの予告だった。再びスタイリングを変えたル・マンは55年のモトラマで発表された。最もとっぴだったのは,1959年サイクロンで,104インチのホイールベース,全独立懸架,単一構造,そして透き通ったプラスチックの「円蓋」を持ったロケットのようなマシーンであった。円蓋は,内側に,太陽光線から守るため,気化させた銀を塗られていた。そしてそれは,ドアが開けられると,スライドして開いた。そして,これらのドアは,電動式ではあったが,後のカイザー・ダリンのように,引き戸タイプだった。サイクロンは,GMのデザインチーフのハーリー・アールの別離の贈り物であった。彼は,1958年に引退した。彼の後継者は,長い間,代理が務まるように訓練されたビル・ミッチェルだった。彼は,60年代に,キャディラックをもっと品位のあるスタイリングに戻すことになる。 実際,キャディラックは,すぐにも,もっと控えめな1960年ラインが,もっとすっきりとしたグリルと低くなったフィンを持つことで,実にひどい行き過ぎから後退した。商品群は,値段と同様,そのままで,4892ドルの62シリーズハードトップクーペから,9748ドルの大きな75シリーズリムジンまであった。機械的仕様も変わらなかった。1956-57モデルイヤーの製造は,9番目だった。それから10位に落ち, 1964年の終わりまでその位置にいた。依然として,ラグジュアリーブランドとして強い印象を与えていた。 もうひとつの新しいGM Cボディを含めて,61年モデルは,長年のキャディラックの中で,格好がよかった。これはビル・ミッチェルの影響を反映していた。彼は,ハーリー・アールよりクロームが好きではなく,輪郭の良く整ったものを好んだ。グリルは,控えめな格子に変えられ,ミッチェルは,視界をどうにか改善したが,広角フロントガラス は,見切りをつけられた(75を除く)。ビアリッツコンバーチブルが,325正味馬力エンジンに格下げされる一方,エルドラード・セビリャとブルーアムは,姿を消した。 GMは,ミッチェルのもと,スタイリングの適所に落ち着いた。そのため,キャディラック62は,基本的に,61年の和らいだものだった。最重要点は,さらに低くなったフィン,新しいオプションとしての,フロントフェンダー・コーナーリング・ランプを含み,バックアップランプ,方向指示灯,停止信号灯は,ひとつの白いレンズの後ろに併合された。4ウィンドーセダンは,よりオーソドックスなルーフラインになったが,依然として,1対のショートデッキの変形を含み,62シリーズタウンセダンとド・ビル・パークアベニューと呼ばれていた。デュアル・マスター・シリンダーと分離した前後油圧ラインを持った新しいブレーキ装置が,未来の先触れとして現れた。モデルイヤーの出荷量は,161,000台近くまで上昇し,61年よりも約23,000台多かった。 長期にわたるキャディラックのV-8が,その14年間で初めてのメジャーな見直しを受けた。シリンダサイズが変えられ,同じくバルブ,ロッカ・アーム,ヘッド,圧縮(まだ10.5:1),連接棒も変えられが,他の全てが,違った−軽くなり,強くなったクランクシャフト,50ポンド軽くなったがより硬くなったブロック,保守管理がしやすいように配置しなおされたアクセサリー類。これら全てが,ほとんど性能のためではなかったが,変更された390は,今までよりずっとスムーズで静かになった。それに,性能は,すでに良かった。典型的な63年キャディラックは,時速115-120マイルに届き,10秒以内に60マイルまで加速でき,燃費は,ガロンあたり14マイルで,高速でもほとんど静かだった。実際,改良の結果,多くのテスターがキャディラックのほうがロールス・ロイスより優れていると考えた。スタイリングは,そのころの習慣からは外れた。フィンは以前より低く,グリルは,大きくなり,新しい車体の外板とボディ側面の飾りは,側面の平たさをより際立たせ,もっと大きくなったリアエンドは,垂直のテール/バックアップ・ライトを持った。 63年には,値段は僅かにしか上がらなかった。そのためキャディラックは,値段に十二分に見合った。無料の機能の範囲が広がり,自動調節式パワーブレーキ,リモートコントロールドアミラーも含まれた。6段階パワーシートもエルドラードでは標準仕様になり,パワーウィンドーも,62シリーズを除く全てで標準となった。パワー三角窓さえ,提供された。ビニール屋根コンバーチブルも,新しいオプションで提供された。驚くべきことには,62シリーズの車は,5026ドル,エルド・ビアリッツはたったの6608ドルだった。これら全てで,キャディラックは,さらにもうひとつモデルイヤー生産高記録を作った。抜きん出た163,000台だった。 1964年は,マイナーチェンジだった。さらに低くしたフィンが,途切れないベルトラインを作り,長さを強調した。グリルは,ボディカラーの水平な仕切りの横木を持ち,テールランプハウジングは,造りなおされた。新しくオプションになった暖房/エアコンディショナー装置は,外気温にかかわらず設定温度を保った。恐らく,もっと意義深いことには,排気量が390から,340正味馬力に応ずる能力のある429立方インチに大きくされた。それは,それ以来ずっとキャディラックの主要商品となっている。生産台数は,さらに向上し,今回は,166,000台近かった。 キャディラックは,めざましい1965年を持った。200,000台近い自動車を製造した。しかし,その年は,概してデトロイトにとっては素晴らしい年だった。そのため,生産高は,11位の価値しかなかった。大黒柱のシリーズ62は,カレーと名前を変え,一方,エルドラードとシックスティスペシャルは,公式には,フリートウッドとなり,75シリーズのように,なくてはならないネームプレート,花の環と羽毛の円形浮き彫り,広い揺れるパネルと後部1/4磨いて光らせた金具,長方形模様の後部羽目細工を誇った。新しいフリートウッド・ブルーアムセダン(実際は,シックスティスペシャルの外装オプション)は,後ろの支柱に「ブルーアム」の筆記体が付いたビニールルーフを提供した。 もうひとつのボディチェンジで,年キャディは,より長く低いシルエットとなった。再度輪郭を付け直した後部デッキに僅かにフィンを残したものの,フィンは完全に水平に設計された。まっすぐなバックバンパーと垂直なランプクラスターも新しくなった。前は,グリルをさらに幅広くするため,ヘッドライトが,水平から垂直に切り替わった。曲がったサイドウィンドーが現れ,6ウィンドウハードトップセダンは,姿を消し,支柱のあるセダンが,カレー,ド・ビル,シックスティスペシャルの外観に戻った。ザ・スペシャルも,固有の133インチのホイールベースに戻った(前回使われたのは1954−1958年)。 V-8は,変えないにもかかわらず,僅かに軽くなった65年キャディは,ラグジュアリー分野一番のパワー対重さの比率を誇った。「デュアルドライビングレンジ」ターボ・ハイドラマディックと完全枠型フレーム(57年からのX型フレームに取って代わって)が,75以外に現れた。そして,全モデルに「音速でバランスをとる」排気装置が付いた。驚いたことに,値段は,1961年よりそれほど高くなかった。 キャディラックは,暦の66年に,初めて,壁を5001台超えて,年間200,000台の車というものを経験した。穏やかなマイナーチェンジが新しいフロントバンパーと,グリル,加えてよりなめらかに一体化したテールライトをもたらした。枠型フレームは,今や,75シリーズを支えていた。それも,1959年以来はじめて,完全にボディスタイリングを変えた。可変パワーステアリングが,カーボンクロス・シート・ヒートパッドとともに,新しいオプションだった。フリートウッド・ブルーアムは,別個のモデルになり,平らの屋根のシックスティスペシャルより豪華に装飾され,価格は,約320ドル高かった。 1967年に登場したのは,その10年間で最も重要な,前輪駆動のまったく新しいエルドラードだった。オールズモービルの新しい1966トロナドを基に,それは,ラグジュアリーフィールドでは,斬新なコンセプトだったが,その背後には,6年にわたる慎重なプランニングと調査があった。前輪駆動が,際立つ路面走行性能を与え,ビル・ミッチェルは,雄大なスタイリングを与えた。 それは,1959年のXP-727プログラムに源を発していた。1962年の早い時期まで,数度の再考を重ねた。経営陣は,その後,前輪駆動に決め,そして未来の原型が,徐々に発展した。しばらくの間,キャディラックは,それを,ラ・サルと呼ぶことを考えたが,結局,もっと高く評価されている名前としてエルドラードを選んだ。レザーエッジラインと正式な屋根の処理をしたXP-825と呼ばれたクレイモデルが,本質上,最後の製造デザインだった。 トロナドと違って,67年エルドラードは,控えめの発表だった。これは,キャディラックらしかった。1年の遅れを使って,オールズモービルのものに改良を加えた。こうしてエルドは,同じ基本的なサスペンション(トーションバー,Aアーム,前にはテレスコピック・ショック・アブソーバ;半楕円形ばねの車軸懸架,後部には,4つのショック・アブソーバー−水平2,垂直2)を使っているにもかかわらず,乗り心地は,いっそう良く,操縦性は,少なくとも同じくらい良かった。ふたつのユニークな追加は,車高調整装置と放射状に出口を与えられたキャリパ・フロントディスク・ブレーキだった。 その独自の比較的コンパクトな120インチのホイールベースで,67年エルドラードは,6277ドルで発表され,キャディラックの1967年モデルイヤーの総生産量の10%−約20,000台−を目標にした。最終的な数字は,17,930台だった。1968−70年は,売り上げは,20,000−28,000台になった。工学技術の力技であるそれは,最高のキャディラックとして,すぐに浸透した。そして,古いブルーアムと違い,それは,すぐにお金を生み出した。 キャディラックは,67年,その最も基本的な「スタンダード」を忘れなかった。フロントエンド全体の上部が前方に突き出ているのが特徴とされる広範囲にわたるリスタイルを行った。新しいライン全体にわたる機能には,マイラーのインストゥルメントパネルプリント配線,車高調整装置(全フリートウッドでは標準装備),クルーズ・コントロール,角度調節ハンドルが含まれていた。新しいエルドラード,また,フリートウッドシリーズの一部に支えられ,キャディラックは,モデルイヤーにまさに200,000台を製造した。 1968年の注目は,動力に集まった;まったく新しい375正味馬力の排気量472立方インチV-8。その年に効力を発する政府の排気基準を満たすようにデザインされ,研究所で,500,000マイルにあたるだけ動かし,広範囲にわたって試験された。燃料効率は,429のもの程よくはなかったが,472は,クーペ・ド・ビルを30秒未満で100マイルまで加速させることができた。 デザイン全体では,68年エルドラードは,車幅表示灯(これもまた新しく必須だった)に加え,より大きいテールライト,フロントフェンダーのキャップに一緒に収めた方向指示灯とパーキングランプ,そして,フロントガラスワイパーを隠すために,後方に拡張されたボンネットを得た。スタンダードも,隠されたワイパーと車幅表示灯に加えて復活したグリルと増えたカーゴスペースのために形を変えたトランクの蓋を得た。 キャディラックは,暦の69年に,記録的な266,798台を製造し,業界のランキングで,クライスラーとアメリカンモーターズをすいすいと抜き,9位になった。もっとも,モデルイヤーでは,7000台近く落ち,223,000台を少し上回っての11位のままだったが。 エルドラードは,1969年,またも,むき出しのヘッドライトを除いては,ほとんど変わらなかった。しかしながら,スタンダードは,比較的角っぽい新しい車体外殻で,完全に形を変えた。ヘッドライトは,水平に戻り,一方,パーキングランプは,依然としてVの字に張り出し,前より高いグリルの側面に並べるために取り囲む形になった。いくぶん真意のはっきりしない変更は,三角窓をなくしたことだ。ワシントン布告により,無料の装備がまたも拡大し,それには,フロントシートヘッドレスト,エネルギーを吸収するハンドル支柱,イグニッション・キー警告ブザー,盗難防止ハンドル支柱/変速機ロックが含まれた。価格は,カレーの5400ドル強から75リムジンの10,000ドルをたっぷり越えるものまであった。 エルドラードは,1970年に新しいエンジンとその品質を証明する「8.2リットル」と書かれたバッジを手に入れた。500立方インチで、これは、排気量400立法インチで、途方もない回転力550フィートポンドに発展した、世界で一番大きい量産自動車エンジンだった。他のモデルは、375の472正味馬力のままだった。全ての1970年キャディラックは、新しい完全なステアリング・ナックル、ガラス繊維ベルトのタイヤ、そして、フロントガラスにはめ込まれたラジオアンテナを誇った。 上位のスタイリングは、1970年に修復された。斜交平行線模様の背景上に輝く垂直のアクセントのついた新しいグリル,パーキングランプ上の水平の輝く飾り,ド・ビルとカレーのボンネットの上にはV字の代わりに翼のある紋章,新しいテールランプ。エルドラードは,ヘッドライトから離れた幅の狭いグリルに加え,細くなったテールランプを見せびらかした。モデルイヤー生産量は,239,000台近くまで増えたが,キャディラックは,またも10位で終わった。しかし,暦の上での1970年の出荷量は,100,000台よりもっと落ち,この部門は,クライスラーとアメリカンモーターズの後ろ,またも11位に落ちてしまった。それにもかかわらず,この業界にとっては全体的に,静かな年で,キャディラックは,生産力で,リンカーンに3-1で優り,インペリアルには,15-1以上で優った。「世界の基準」は,依然として,アメリカのラグジュアリーのお気に入りとして最高位に君臨していた。 キャディラックは,1976年の終わりまで,成功した60年代後半のラインナップのままでいた。スタイリングは,71年以降,あまり変わらず,カレーの売り上げは,年間6000-8000台だったのだが。80年台を予言したのは,1975年の新しいコンパクトなセビリャで,50年間で一番小さなキャディラックであり,1977年には,きっぱりと小型化したビッグカークラスに,続かれた。 同じEボディのビューイック・リビエラとオールズモービル・トロナドと一緒に,エルドラードは,1971年に,大きくなった。徹底的に重くはならなかったが。これは,ほとんどモデルチェンジをしないまま,1978年の終わりまで続いた。インフレとあいまって,価格を毎年上げることとなった政府命令の安全と排気装備は別として。年間売り上げ40,000台上昇の源となっていたが,これらの特大車は,1967−70年モデルのような,洗練され,操縦性がいい車ではなかった。 71年にデザインしなおして登場したのは,初めての前輪駆動のエルドラード・コンバーチブルで,その会社の従兄弟から提供されたボディスタイルではなく,1966年以来初めてのオープンエア・エルドだった。デトロイトじゅうで減退するコンバーチブルの売り上げと極端な縮小が,それを売りに出ている唯一の工場製造のコンバーチブルにした。これが,真っ白な「最後のコンバーチブル」の2000台の特別な大需要を引き起こし,これ以上作らないという約束になった。過激な日和見主義者たちが,優良の投資のように見えるもので,コレクター市場で大もうけをすることを希望して,天井知らずの値をつけた。その部門が,その言葉を守ったのは,ほんの暫らくだけだった。時が証明するように,コンバーチブルの消滅は,一時的なもので,76年のエルドは,デトロイトの「最後の」コンバーチブルではなかったし,80年代半ばには,とりわけ価値もなかった。 1970年は,スタンダードラインに,「飛行機の胴体型」側面と,よりソフトで大きい輪郭を持った,よりなめらかで,しかし大きな新しいCボディを持ってきた。カレーは,古い61シリーズの現代の相当物のままであった。もっとよい装備のド・ビルより大して安くなかったけれども。おそらくこのせいで,売り上げは,1974年までに,10,000以下に落ち,1977年には,カレーの生産中止となった。この頃のリストには,2ドアと4ドアハードトップしか載っていなかった。73年以降に,2ドアは固定支柱スタイルになっていきながら。 大ヒットのド・ビルも,1970年以降,その同じ2種に減らされた。そのコンバーチブルは,復活したエルドラードのラグトップがあるため,不必要だと判断された。支柱のある4ドアは,1977年まで延期されただけだったが。その名前の歴史を思うと,支柱のあるクーペ・ド・ビルは,明らかに矛盾していた。ことによるとその理由で,1973年以降,支柱なしのセダンのド・ビルより人気がなくなった。 ずっと低生産量の特製品アイテムである,最初のフリートウッドは,71年に新しいGMのDボディを手に入れた。したがって,1966年以来初めての新鮮なスタイリングだった。シックスティスペシャルは,その独自の133インチホイールベースに,4ドアセダンのままだった。しかし,今や,たった一つのバージョンしかなかった。フリートウッド・シックスティスペシャル・ブルーアムと呼ばれ,よりはっきりと分かれているサイドウィンドーと,75シリーズの新しいルーフスタイリングを共有した。それは,1976年の終わりまで,またほとんど外観の変化は経験しない。 この時代,キャディラックのスタイリングがそうまでゆっくり展開した主な理由は,工学技術と設計の才能が,当時のもっと緊急の関心事で手がふさがっていたせいだ。燃料節約,排気,そして乗っている人の衝突からの保護。このあとの二つを,最初のひとつと調和させるのは大変難しかったので,キャディラックの工学技術の重点は,その両方のV-8に関する排気面に向けられた。例えば,排気ガス再循環は,1973年に,窒素酸化物(NOx)排出を減らすために加えられた。一方,エア・インジェクション・ポンプとエンジン・ブーリが,騒音を減らすために変更された。 ビッグカーの売り上げは,1973−74年の石油ショックでひどく低下した。キャディラックも例外ではなかったが,1975年までには,スマートに回復した。その時に,エルドの巨大な500V-8が,−そのときまでに,自動車技術協会(SAE)条例でわずか190正味馬力まで落ちていたのだが−ひとつを除いて,他のキャディラックの標準仕様になっていた。 そして,そのひとつは伝統からの大きな逸脱を特徴付けた。ラインの中で一番大きいだけでなく,75シリーズを除けば最も高価であった真新しい4ドアセダン。それは,エルドラードの系統から,セビリャとして1975年春に現れた。キャディラックは,その創始者を称えるために「リーランド」という名も検討していたが,ほとんどの購買者は,若すぎて,それを関係づけられないと判断したのだ。ラ・サル(再び!)もまた,競争に参加していたが,ついに,同じ理由で除かれた。なぜならキャディラックの30年代の仲間のブランドは,依然として「失敗者」のイメージを持つと痛切に感じられていたから。しかしこのセビリャは,失敗者ではなかった。キャディラックがまだ開拓したことがないラグジュアリー市場のある領域−メルセデス・ベンツに代表される高級な中型車−に狙いを定めて慎重に計画を立てられていたからだ。 セビリャは,雑多な批評を受けた。114.3インチのホイールベースで格好よく,こぎれい。それは,内部のスペースで,ドイツのライバルと比べて優っていた。しかし,スタイリングは,想像力に欠けると,思われることもあった。そして,この「ベビー・キャディラック」は,実際,GMの無味乾燥なXボディ・コンパクトを再設計したバージョンであるというのは,公然の秘密であった。高級車クラスでは,深刻な障害だ。 しかし,運転では,批判されることはほとんどなかった。動力は,オールズがキャディラック仕様に組み立てた排気量350立方インチのV-8から供給され,それは,このモデル専用の新しいベンディックス・エレクトロニック・フューエル・インジェクション装置も含んだ。その結果は,特有の10-11秒の60マイルまでの加速と110マイルを超えるスピードを持った,小気味の良い,タービンのような性能だった。セビリャは,75年のド・ビルより,1000ポンド軽く,27インチ短かった。しかし,その乗り心地は,雲のようで,買い手の期待を裏切らなかった。そして,それは,67年エルドラード以来の,最高の操縦性だった。これらのメーカーが認めたであろうよりもずっとベンツやBMWに近かった。確かに,それは,大きなメルセデスに軽蔑されるように,洗濯板のような路面上を滑るようには動かなかったが,そんなに高くもなかった。購買者は,熱狂的に応えた。セビリャの売り上げは,その最初のフルモデルイヤーである1976年に,合計43,000台になり,部門出荷量の15パーセントにもなった。 他のキャディラックは,76年には,ほとんど変わらなかったが,改良されたエンジンの供給と,回復している経済が,全面的に売り上げを駆り立て,その部門は,73年以来初めて,300,000台を飛び出した。1977-78は,カレーとエルドコンバーチブルの製造中止にもかかわらず,ことは,さらにうまくいき,年間約350,000台。2回目の石油危機が,暦の上の1979−88年の生産量を,不振にした。しかし,キャディラックは,業界全体の通常の2-3パーセントを維持した。長年,必要としていたシェアだ。 おそらく,キャディラックだけが売り上げ新記録を作りながら,そのように思い切ってその車を変更できた。その1977年スタンダードは,完全に新しかった。76年より,平均して,8.5インチ短く,1000ポンド近く軽かった。ホイールベースは,今や,ド・ビル/フリートウッド・ブルーアムは,121.5インチ,フリートウッド・リムジンは,144.5インチだった。それらは,より見事で,効率のよくなったエンジンも持っていた。180正味馬力で燃料噴射の425V-8で,195馬力バージョンは,リムジンを除くオプションだった。上流市場向けの「デレガンス(エレガントな)」の装飾オプションが,新しい擬似コンバーチブル「カブリオレ」ルーフカバーと一緒に,ド・ビル向けに続いていた。1979年も,ほとんど同じだった。その年,エルドラードは,小型化され,1100ポンド減り,長さでは,20インチ減り,ホイールベースは,12.3インチ減って,114インチになった。高級市場向けの国産品にとっては珍しい特質としは,後輪独立懸架,前の車軸懸架よりもコンパクトで,それが,乗る人の空間をほとんど減らすことなく,ホイールベースを減らすことを可能にした。全79年キャディラックのオプションには,デュアル・エレクトリック・リモート・コントロールドアミラー,40チャンネルCBラジオ,「トリップマスター」内蔵型トラベルコンピュータが含まれていた。78年ド・ビルに最初に提供されたトリップマスターは,平均燃費と速度,目的地までのマイル,到着予定時刻,加えてエンジン回転数,冷却剤温度,そして電気システム電圧に関する,デジタルで読み出された情報を提供した。 1980年の注目は,完全に見直された第2世代セビリャに集まった。その最も論争の的になった面は,デザイナー,ウェイン・カディにより設計された,しかしGMスタイリングチーフであるビル・ミッチェルへの最後の一矢でもある,傾斜した「トランクバック」後部だ。フーパーとヴァーデン・プラスによるある1950年代のロールス・ロイスを思い出させて,それは,テール・フィンの48年以来,最も特色のあるキャディラックを生み出した。もっとも,誰もが,それを好きだったわけではないが。費用が原因で,セビリャは,今は,最新のエルドラードのシャシーを共有していた。したがって,後輪から前輪駆動に転じ,同じ,車高調節装置のついた全独立懸架を持っていた。1978年以来ずっとそうだったのだが,スマートなエレガントバージョンは,たいていツートンカラーだったが,標準品に代わる値段が高いほうの選択肢だった。 80年代のセビリャ手ごたえのある機能は,その標準仕様のエンジンであった。ランシングで,他のGM部門用に組み立てられた,現存するオールズモービルの350ガソリンV-8の「ディーゼル化した」バージョンだった。キャディラックは,最初にこれを,1978年のセビリャ向けオプションとして提供した。79年には,全面的にオプションになった。ディーゼルにしては,滑らかで静かで,それは,キャディラックに,圧縮着火のメルセデスモデルへの真っ向の答えを与えた。さらに重要なことには,それは,モデルイヤー1978年に発効する企業平均燃料節約(CAFE)命令にGMが応ずることに,その部門が,寄与するのを助けた。 しかしながら,時がたつにつれ,ほとんどの人が,ディーゼルメルセデスを購入するのは,その経済性や寿命のためではなく,その3点とがった星のスノッブな外観のためだということがわかってきた。 そして,キャディラックのイメージには,運が悪いことに,オールズのエンジンは,GMが,決して直せない早い時期の,絶え間ない信頼度の問題を経験していた。80年代半ばまでには,安いガソリンの供給過剰が,1979-82に,その業界に惨害を与えた第2次石油危機の記憶を洗い去ろうとしていた。いったん,購買者たちが,ビッグカー,ビッグエンジンに急ぎ戻ってくれば,キャディラックは,ディーゼルに見切りをつけるのに,何の問題もなかった。合衆国内で,小売をしていたほとんど誰もが同じだった。 この前に,品質に関するキャディラックの評判に対するさらなる一撃が来た。それは,問題を含む「V-8-6-4」可変−休止ガソリンエンジン,またもCAFEによりうながされた損失の大きい間に合わせだった。6リッター(368立方インチ)の排気量を持ち,控えめな140正味馬力に調整され,それは,セビリャ向けの1981年オプションとして登場し,他では標準仕様だった。 その中心には,電気機械装置があり,イートン・コーポレーションによって開発されたものだが,エンジンのデジタル・フューエル・インジェクションをコントロールする電子モジュールによって合図されると,2気筒あるいは4気筒を開けたり閉めたり(よってこの名がある)した。その目的は,もちろん,改善された節約で,中速度でのハイウェイクルージング中のような,一部の回転や低い負荷の条件下で,8気筒全部は必要がないときは,シリンダーが,閉まった。それは,良いアイデアだった。しかし,あまりにも複雑で,確実性にかけた。そして,キャディラックは,両方のイメージに大きな代償を払い,怒った消費者が,保障の訴訟を起こすやいなや,大金も払った。そのV-8-6-4がちょうど一年後に終わりになったときに,嘆く者はほとんどいなかった(リムジンでは,82年終わりまで存続していたが)。 もっとよい賭けは,ビューイックの125正味馬力,4.1リッターV-6だった。新しく,81年の全部にわたるオプションで,キャディラック史上初めての6だった。もうひとつの新しい特別のものは,ボタンを触ると,2つのプリセットポジションのひとつであるとみなす,電子による「メモリー」パワーシートだった。マーキュリーの50年代半ばの「シート・O・マチック」を思い出させる。 82年には,もう2,3の驚きがあった。一番大きい驚きは,75年セビリャよりも小さいキャディラックだった。シマロン と呼ばれ,それは,GMの新しい101.2インチホイールベースJボディの準小型車のいやに派手なバージョンだった。付属装置を目一杯備えて,しかし,その他の点では,他の各GM部門の姉妹4ドアに,とてもよく似ていた−価格以外は:最初は,12,000ドルだった。類似したシェビー・カバリエやポンチアック J2000が,同等の装備を持っていて,半額で手に入るとき,これは本当に法外に思えた。シマロンは,レザーカバーやオプションのスライディングガラスの「アストロルーフ」のような2,3の専売商品を持っていたが,そのつまらない起源は明らかだったので,誰も,それを,真のキャディラックだとは思わなかった。 シマロンは,「バッジをつけた工学技術」の目にあまる行為にあったキャディラックにとって,紛れもない厄介者だった。それでも,それは不可避の展開だった。部門の経済を,そのより大きい車を再び小型化できるまで,押し上げることが必要とされた。そしてまた,キャディラックの売り上げを侵食し始めている,輸入品(BMW3シリーズに代表される)がどんどん入ってくる傾向に抵抗する助けになることも必要だった。しかし,この金ぴかのJを戦闘配置につける決定は,土壇場でくだされ,それが現れた。そして結果として生じる批判が苦痛を与えた。 結果として,キャディラックは,シマロンを,すぐさま小さいほうのJたちから遠ざけ始めた。もっと標準仕様の機能を加えたり,マイナーチェンジや豪華な「ドロ(金の)」83年のサブモデルをもぐりこませたり,シェビーの2.8V-6を85年半ばからオプションにしたり,87年には標準にしたり(もともとの弱くうるさい2.0リッター4に取って代わって),もっと「ヨーロッパの」雰囲気を添えるために,サスペンションを下手にいじくり回したりして。しかし,購入者たちは,常に,群れをなして離れたままだった。そして,キャディラックは,1986年の終わりまで,年に平均20,000台のシマロンを売りさばいた。需要は,それから15,000以下にまで減少し,そして,そのモデルは,遅まきながら1988年以降,終わりとなった。 だからといって,キャディラックは,困って銀行に泣きついたわけではない。なぜなら,出荷合計数は,1982年から85年の終わりまで,着実に上昇していたのだから−約235,500台から335,000台近くまで。シマロンとやっかいなエンジンは,そのねたみを抱かせるような機械工学の記録を汚したかもしれないが,キャディラックは,依然として,ラグジュアリー市場を支配していた。 これが我々を,他の1982年の驚きに連れて行く。さらにもうひとつ新しいエンジンだ。これは,小さな4.1-リッター(排気量249立方インチ)V-8で,軽いアルミニウムブロックの頂上に,鋳鉄ヘッドがつき,加えて,デジタル・フューエル・インジェクションもあった。「HT4100」という名をつけられたそれは,82年の全て向けの(シマロンとリムジンを除く)標準仕様だった。最初の見積もられた出力は,125正味馬力で,ビューイック4.1V-6と同じだった。それは,その年のオプションとして残っていたのだが,それから完全に姿を消した。しかしながら,実際には,V-8は,V-6よりも少し少ない回転数を生み出していた。それは,確かに,古い425や,V-8-6-4にさえも,回転力でずっと劣っていた。そのため,その大きなキャディラックは,ずっと遅かった。 もっとうれしい82年のニュースは,エルドラードの灯火管制下の盛上げ飾り ,アルミニウムホイールにかぶせたずんぐりしたタイヤ,そして,標準仕様のバケットシート−コンソールの,ユニークな飾りのついた内装を持ったツーリング・クーペを必然的に含んだ。伝統主義者は,まだ,2あるいは4ドアのド・ビルとフリートウッドを,地味な内装かデレガンスの内装かで,加えてスタンダードかビアリッツのエルドラードと基本かエレガント・セビリャかから,選ぶことができた。すべて,擬似ワイヤホイールとコンバーチブルのような屋根と一緒に手に入れることができた。 大きいキャディラックは,翌2年間にわたって,ほとんど変わらなかった。HT4100の馬力と回転数は,83年に,それぞれ10ずつ上がった。そのとき,エルドとセビリャは,GMのボーススピーカーの人たちと協力して,デルコ・エレクトロニクス・ディビジョンによって開発された,新しい音響上あつらえたようなサウンドシステムを提供した。 84年は,オープンエアのエルドラードの復活(全ての「最後のコンバーチブル」というばかげた考えは,すでに,沈黙させられていたのだが)をのぞいて,全てが,また,ひっそりとしていた。実際は,ビューイックが82年にラグトップのリビエラを,再発売していて,それが,キャディラックを,その関係のあるエルドで,先例にならうのがむしろ遅いように見えさせた。そのもっともらしい理由は,もうコンバーチブルを作らない約束ではなく,リビエラの鈍い売れ行きのせいだった。それが,キャディラックの経営陣をためらわせたに違いない。 しかし,結局は,彼らは,決断し,そして,首尾よくやってのけた。ビアリッツの装飾(70年代後期からクーペ向け重要なオプション)で提供され,生まれ変わったエルドは,基本価格が,31,286ドル−生のドルで ,かつて提供された中で,最も高い合衆国製コンバーチブル。価格は,より小さいEボディの出現や,ラグジュアリー市場の引き続きいている輸入品への転向ほどは,それが消える原因にはならなかった。 モデルイヤー85年は,キャディラックにとっては,その最も売れているド・ビルが,再び小型化し,初めて,前輪駆動を与えられたために重要だった。その新しいCボディは,その年,同じように復活したビューイック・エルドラードとオールズ・ナインティエイトと共有されていた。全独立コイルばね/ストラットタイプサスペンションとラック・アンド・ピニオン式パワーステアリングとともに,110.8インチのホイールベース シャシーもそうだった。寸法的には,この今までで最もほっそりとしたド・ビルは,その後輪駆動の前任者より,2フィート短く,約600ポンド軽かった。また,134.4インチのプラットフォームの新しいセブンティ−ファイブリムジンもあった。4.1V-8は,小さくなった新しいユニットの内部に,同等のスペースを供給するために,横向きにされたが,なくてはならない多岐管にする変更が,馬力を125に戻し,回転力も190フィートポンドにした。それにもかかわらず,キャディラックは,世界で唯一の横向きのV-8を主張した。 更に良いことに,新しいクーペとセダン・ド・ビルと彼らの相対物の豪華なフリートウッドが,すぐに,人気のある後輪駆動のシリーズよりよく売れた。キャディラックは,その最初のフルモデルイヤーに,1981-84年Cボディの年間137,000−175,000台に対して,197,000を超える台数を製造した。 しかし,買い手がこのように良しと認める前には,キャディラックは,保護策として,いくつかの後輪駆動モデルを残すことに決定していた。いったん,市場が,82年の停滞状態から,その強い回復を始めると,これは,抜け目のない動きだとわかった。1986年の終わりまで,フリートウッド・ブルーアムと名札をつけられ,それから,ただのブルーアムになり,これらの車は,その10年の終わりまで,ほとんど変更なく続いた。年に50,000の注文を集め,それぞれまったくのぼろもうけだった。我々は,1985年以降の,大きなブルーアム・クーペとディーゼルV-8オプションの終わりについて記すべきだ。この後者は,惜しまれなかった。CAFEに関しても,政府が,それらの要求をやや緩めていたので,本当に必要なわけではなかった。本当に,キャディラックは,これらの車を,140正味馬力の5.0リッター(排気量307立方インチ)オールズV-8に,1986年,切り替えることに決めた。 計画されたとおり,キャディラックラインの77年以来2回目のホイールベースの小型化が,新世代エルドラードとセビリャが1986年に現れたとき,完了された。一皮向けば双子のままで,それらは,その年のリビエラとオールズ・トロナドの,新しい108インチホイールベースEボディのプラットフォーム(技術工学的には,セビリャは,まだ,GMのKボディだった)を共有した。もちろん,そのキャディラックたちは,その他が持つビューイックV-6の代わりに4.1V-8(またも,縦ではなく,横向きに置かれて)を持った。デザイナーたちは,もう一度,より小さくなった覆いの内部に,なんとか同じ内側のスペースを作った。ここで,長さで16インチ,運転整備重量で,350ポンド以上切り落とされ,そしてセビリャは,コンバーチブル・ノッチバック輪郭のための物議をかもす「腰当」を脱ぎ捨てた。両方とも,多数の興味深い新しい機能を持っていた:床に置かれたシフター(4速増速駆動オートマチック・トランスアクスル),同じ高さに置かれた「組み合わせの」ヘッドライト,そして以前より多い電子によるちょっとした機械装置。 悲しいことに,これらの車は,シマロンよりも大きな販売の大失敗だった。セビリャの生産量は,1984−85年の1年間に40,000台強で,半分に落ち,エルドラードは,同じ時期,年間76,000台の注文を集めたが,3分の2以上も下がった。 その理由は,十分,明らかだった。それは,GMのもっと安いNボディ・コンパクトのものに(その前年に登場し始めたのだが),あまりにも近いブランドスタイリングと,その車の顧客にとっては,とても十分には感銘を受ける寸法ではなかったのだ。1987年の,GMのありありと減っている財産についてのニューヨークタイムズの記事は,Nボディ・オールズ・カレーとセビリャを描写することによって,デザインの問題を強調した;その二つを別々に語ることは困難だった。悪いことが重なることに, E/K製造専用の非常にオートメ化された新しいデトロイト-ハムトラムク 工場における設備の問題の結果,できばえが,ひどく落ちてしまった。その災難の特徴を示して:ロボットが自動車の代わりに,お互いを塗装している…。 負けずにがんばる以外なかった。そこで,87年モデルは,マイナーなサスペンションの性能強化だけを受けた。1988年には,キャディラックは,そのスタイリングの間違いを,昔ながらのやり方で直そうとした。こうしてセビリャは,「パワー・ドーム」ボンネットと「尊大な」グリルを手に入れた。エルドラードも,同様の処置を受けたが,後ろに3インチ長さを引き伸ばされた,新しい四角にされた低いボディの板金もまた受け取った。50年代を思い出させる。 より幸せな発達は,初めて入手可能になったアンチ・ロック・ブレーキシステム(ABS)ともっと能力を上げたエンジンも含んだ。前者は,1986年ド・ビル/フリートウッド向けに発表されたのと同じ称賛に値するオプションだった。もっとも,87年まで,容易に手に入らなかったが。4.1V-8は,4.5リッター(排気量273立方インチ)に大きくされ,その上に,新しい2段階の吸気マニホールドと,大きくなったスロットル・ボア,そして,その他の変更が,馬力を25(計155に)そして回転力を45フィートポンド(計240に)引き上げた。88年エルドラードとセビリャは,こうして見事に,1986-87年より速かった−実際,まったく迫力があった−そして,ABSは,パニックストップを短くし,より制御されるようにした。「ツーリング」サスペンションユニットは,乗り心地のよさをほとんど犠牲にすることなく,求めているきびきびした操縦性を今までどおり,手に入れることができた。 生計費を稼ぐド・ビルとフリートウッドも,良くなっていた。僅かにパワーが増えたほかにも,86年ラインは,安定したサスペンション,アルミニウムホイールにがっしりしたブラックウォールタイヤ,ビルトイン・フォグライトと一緒にフロント・エア・ダム,加えてクロームが減った外側と特別な装飾の内部を持った新しいツーリング・クーペとセダン・ド・ビルを提供した。87年モデルは,リアフェンダー・キャップを拡張し,新しいグリルを手に入れたことで,1.5インチ長くなっていた。一方,シックスティスペシャルの名称が,引き伸ばされた,115.8インチホイールベースのフリートウッド4ドア上に戻った−「高級車」市場へのあいさつだった。前輪駆動のセブンティファイブは,その最後の年だった。クライスラーがのちに悟ったように,工場組み立てのリムジンは,利益がなく,そのため,たくさんいるアフターマーケットの加工工程作業者に任せたほうが良かった。88年の主な変更は,より能力のある4.5V-8と,ふさわしい時を選ぶトワイライト番人ヘッドライト装置,角度調節/テレスコピック・ステアリング,乗降時の照明システム,そしてクルーズ・コントロールを含む,いくつかの以前のオプションの標準化に関連していた。 ド・ビルとフリートウッドは,その後,大きな売り上げを生み出した,主要な改造をして,80年代を終えた。再び,「より長いことは,より良い」策略に期待して,キャディラックは,セダンモデルを,全長で8.8インチ引き伸ばし,ホイールベースを3インチ大きくして113.8にした。クーペは,変更しなかったホイールベース上で,全長5.9インチ長くなった。両ボディタイプ上のスタイリングは,新しい寸法に合うように修正された。トランクスペースは,約2立方インチ広くなり,フロントフェンダーは,重さを減らすために,さびない「ナイロン混成の合金」になった。提供物は,2ドアフリートウッドを2年の中断後,復帰させて,拡張した。やはり復活したのは(そして,またもや50年代を想起させて),フリートウッドに付いたリアフェンダーのスカートだった。それは,またも,本当に,ホイールベースの2インチを失った,シックスティスペシャルを含んでいたのだが。 いくつかの新しいライン全体にわたるオプションも,89年に現れた。ハンドル支柱に収納された補助的なエアバッグや「エレクトリクリア」フロントガラスヒーター(今や標準仕様のリヤウインドー霜取り装置に調和させるため),GMの頭のいい新しい「パスキー」盗難防止装置を含んでいた。動力伝達系統は,変更されなかったが,何インチか加えたにもかかわらず,重量の増大量は,平均すると100ポンドであったため,性能も変わっていなかった。 これらのインチは,直接,高い売り上げになった。そして,ド・ビル/フリートウッドの総製造量は,モデルイヤーに,26,000台近く−17パーセント以上−も急に上がり,179,000台近くにまでなった。1990年モデルは,大して変わらなかったが,4.5V-8を,155から180正味馬力に引き上げ,回転力を5フィートポンド改善し,計245にした,シングル・ポイントからマルチ・ポイント・フューエル・インジェクションへの切り替えにより,性能は,利益を得た。安全に強い関心を示す顧客は,全モデルで新しく標準仕様になった運転席のエアバッグに加え,フリートウッドの別料金のかからないABSを,ほめそやした。シリーズの売り上げは,深く新しい不景気の始まりにもかかわらず,2300台しか落ちずに,引き続き,堅固であった。 1990年セビリャとエルドラードは,より能力のあるV-8も持っていた。それは,歓迎された。なぜならば,両方とも,明らかにスポーティーになってきていたから。それでも,輸入されたスポーツセダンを撃退しようと努めながら,キャディラックは,限定生産のセビリャ・ツーリング・セダン・ユニットを88年後半に提供し,それから,1989年には,それは,完全なオプションにされた。その主な魅力は,比較的落ち着いた単色の外装,釣り合いのいい合金のリムにどっしりとしたタイヤ,ツーリング・サスペンション,そして,より速い加速のための,より短いファイナル・ドライブ・ギヤだった。 セビリャ・ツーリング・セダンは,1990年,別個のモデルの身分に値するだけ十分人気があると,わかった。そのとき,セビリャとエルドラードは,標準仕様の運転席側のエアバッグといくつかの種種雑多な費用のかからない特別なものというマイナーチェンジを受けたのだが。セビリャ・ツーリング・セダンもまた,今や,ABSが付いていた。売り上げは,数年前よりも良かったが,まだ,キャディラックの望むものではなかった。エルドラードの生産量は,89年の31,000台弱から1990年には,約22,000台に落ちた。しかしながら,セビリャは,この損失を埋め合わせる以上で,23,000台から33,000台へ40パーセントも高く舞い上がっていた。 キャディラックの80年代の最も野心的な車−間違いなく最も宣伝されていた−は,アランテだった。スマートなツーシートのコンバーチブルで,正面きって,大金のメルセデス560SLに向けられていた。1941年以来,初めてのツーシートキャディで,99.4インチに短くされたホイールベースの前輪駆動のエルドラード・シャシーにのって,たいそうな宣伝とともにあいさつした。動力は,最初は,マルチ・ポイント(シングルあるいはデュアル・ポイントに変わって)・インジェクション,ローラ・バルブ・リフター,ハイフロー・シリンダー・ヘッドそして170正味馬力に応ずる能力のある,調整した吸気マニホールドのついた,調整した4.1V-8から来ていた。イタリアの高名なピニンファリーナが,スタイリングと車体製作のために−そのもっとスノッブな外観のため−契約させられた。修正されたエルドの構造以前のものが,専用の747ジェットで,アランテ製造専用にツーリン に建設された新しいピニンファリーナ工場に飛行機で運ばれ,そしてそれから,完全にくりぬかれたシェル(アルミニウムのボンネットとトランクの蓋の付いた亜鉛引きされた車体)が,デトロイト,ハムトラムクに,動力伝達系統の据付と最終的な組み立てのため,空輸して戻された。標準装備には,取り外せるハードトップが,手動のソフトトップを補うために,含まれていた。小型携帯移動電話機が,ただひとつのオプションだった。 快適で有能なツーリングカーであり,キャディラックの完全に新しい型ではあったが,アランテは,期待された印象を与えることはできなかった。キャディラックは,暦の上の87年の4000台の売り上げを予想したが,しかし,たったの1651(3363台組立のうち)しか売れなかった。最初の製造丸一年の引渡しは,計画された7000台に対し,たったの計3065台だった。モデルイヤーの製造は,ほんの2569台だった。その結果:やっかいな 売れ残った車の山,それをなくすための,かなりの割戻し−そして,キャディラックの名声に対するさらなる一撃。実際,業界週刊誌オートモーティブ・ニューズは,アランテを,1987年「その年の失敗作」と命名した。部門のチーフであるジョン・O.・グレッテンベルガー は,その心もとない名誉を−そして車のスロースタートに関しての幅広い報道を−,「GMバッシングの最後のラウンドにすぎない」として退けた。 それでも,それがなんであっても,アランテは,あまりに高価に判断された。発表時に,54,000ドル,88年ほとんどモデルチェンジなくて56,500ドルだった。そして,それは,ショールームを離れるとすぐに,3分の1も値下がりしていたのに,ところが,メルセデスSLは,なんと価値を上げていた。絶えず悩ませる問題の雑多な集まり−風や水の漏れ,キーキーいったり,ガタガタいったりする音,働かない警笛や利き過ぎるヒーター−は,事態をなかなか改善しなかった。 キャディラックは,あわただしく行動した。1989年に,より大きな4.5V-8を装備し,それから猛烈な200正味馬力と270フィートポンド向けに調整して。ああ,悲しや,それと,より短いファイナル・ギヤは,650ドルの高燃費車罰金を負うのに十分なほど,環境保護庁(EPA)燃費を下げた。それが,実際の引渡し価格を57,183ドルに上げた。しかし,0-60の加速は,10秒から8.5秒以下になり,キャディラックは,新しい速度高感度パワーステアリングとより大きいホイールとタイヤ,そして,3モード「スピード−ディペンデント・ダンピング」(自動調節ショック・アブソーバー)で,全速度での安全を保った。その他の改善点には,より快適なシート,修正された屋根の機械装置(いずれにしても手動),そしてパスキー盗難防止装置が含まれていた。モデルイヤー生産量は,2569台から3298台に上昇し,それが,励みとなった。しかし,アランテの売り上げは,今や,SLの高い残りの価値に関連付けられた「保障された再売却」計画に支えられていた。つまり,キャディラックは,もし,アランテのオーナーが他の新しいキャディラックと交換するならば,その差額を支払うと約束したのだ。 部門の最高のものとしての,その最初の使命をしくじって,アランテは,1990年,新しい役割を得た−工学技術のショーケースだ。ハイテクを持った。大きなニュースは,標準仕様のトラクション・コントロール・システム−前輪駆動には,初めて−に加えて,変更された「速度高感度サスペンション」(SSS)で,これは,時速40マイル(25マイルに変えて)までは,滑らかな低速度の乗り心地のために,「ソフト」モードのままでいて,それから,以前と同様,「ノーマル」を選び,時速60マイルを超えたときだけ「ファーム(堅固な)」に入る。「ファーム」は,急加速,急ブレーキ,急なコーナリングの間にも,始動した。無料の運転者用エアバッグが安全の役に立ち,コンパクトディスク・プレイヤーが標準装備リストを長くした。 値段の魅力を保とうと全力を尽くして,キャディラックは,ハードトップなし1990年アランテを,「フル」バージョン(それは,急に57,813ドルに上がったのだが)よりはるか6313ドルも下回る,51,500ドルで提供した。しかし,70,000ドルの半ばからスタートした新しいデザインのメルセデスSLの登場にもかかわらず,アランテの売り上げは,悪化の一途をたどった。モデルイヤーの出荷量は,3101台までゆっくり動いた。 アランテは,もう3シーズン持ちこたえた。あまりに早く終わりになった,その他のいくつかのGM車のように,最後のものが一番良かった。ひとつには,93年モデルには,キャディラックの4.6リッター,完全な295正味馬力の新しいオールアルミニウム,デュアル・オーバーヘッド・カム「ノーススター」を詰め込まれた。もっと洗練されたトラクション・コントロールとより速く作動する「道路感知サスペンション」(RSS)も,持った。しかし,この時点までは,光り輝く新しいセビリャとエルドラードが,キャディラックのイメージを大いに磨いていた。そして,アランテは,「世界の基準」が,まだ意味を持つことを証明するために,もはや必要とはされなかった。コレクターのために−そして,間違いなく:アランテは集められるだろう−,終局のモデルイヤー生産量は,91年にきっかり2500台,92年には,1931台だけ,最後の作の93年は,4670台だった。 暫らくの間,他のキャディラックは,きわめてうまくいっていた。技術的にも商業的にも。その部門は,約45,000台もの暦の上での1990年と91年の間の売り上げを失ったが,その後で,需要は,その十年の半ばまで(1993年の10,000台程度の下落を除いて),214,000台あたりで安定した。それは,リンカーンからの絶え間ない攻撃的な競争なしに,当時のGMのおびただしい問題に対して与えられた,称賛に値する展示会であった。その理由で,キャディラックは,その長年のライバルより前に気持ちよくい続けた。もっとも,キャディラックより少しのモデルしか提供していないにもかかわらず,リンカーンはキャディラックのリードを,1993年には,30,500台まで狭めたのだが。 しかし,キャディラックが心配しなくてはならないのは,リンカーンのことだけではなかった。ヨーロッパのラグジュアリーカーが,増加しただけでなく,キャディラックをほとんど無視したままの,比較的若く,富裕な「ベビーブーム」世代にまで,よく売れていたのだ。またその上,日本車も,その頃,アクラ ,インフィニティ,レクサスの旗印の下,高級品市場向けのクーペとセダンとともに,参入してきた。これら全ての競争相手は,技術的に極めて精巧で,そしてほとんどが,操縦性が実に優れていた。ラグジュアリーリーダーとしてのその位置を守るため,キャディラックは,応えなければならなかった−しかも早く。 キャディラックはやった。1991年の大きくしたアイアンヘッドV-8で始めた。今や,4.9リッター(排気量300立方インチ)で,このエンジンは,アランテと大きく古いブルーアム以外の全モデルで,新しく標準仕様となった。馬力は,200で,そして新しく一体化された電子トランスミッション・コントロール滑らかで,能率的な分配を確実にした。その同じ年,ABSが,ド・ビル,エルドラード,そして基本的なセビリャ向けに,オプションから標準の立場になった。ド・ビル/フリートウッドラインも,軽いマイナーチェンジを行った。主に,新しいグリルとより突起したボンネットのふくらみによって。 一方の目で輸入品を見ながら,キャディラックは,3年間の不在の後,1991年に,ド・ビル・ツーリング・セダンを復活させた。価格を約35,200ドルにして,落ち着いた「単色の」外装と,ブラックウォール・パフォーマンス・タイヤをつけた頑丈な16インチの合金ホイール,より良い加速のためのより短いファイナル・ギヤ,しっかりした操縦性のためのより太いスタビライザー・バー,そして木とレザーの内装。 いっそうぴったりと輸入車に狙いをつけたのは,全て新しい1992年のエルドラードとセビリャだった。両方とも,滑らかで曲線が美しく,格好よく優美で,その最近の角ばった過去を捨てて,斬新で気持ちが良かった。しかしながら,スタイリングは,もはや二つの間にあまり似たところはなく,なおその上,他の部分では,もっと大きく違っていた。例えば,セビリャは,今や,自分の111インチのホイールベースであるのに,一方,エルドは,全長108インチを堅持した。両モデルとも,約12インチ長く,2.5インチ幅広くなったが,新しいセビリャは,引き締まり,きっぱりして,キャディラックにしては,豪胆ですらあった−ある人たちの目には,エルドのことを慎重と見させるほど十分に。 価格が,ある人たちの目を開かせた。エルドは,今や,32,000ドルでスタートした。一方,セビリャは,35,000-38,000ドルの範囲まで上がった。それから再び,インフレが損失をもたらし,両方の新しいモデルは,相当する輸入品と対照して,実に素晴らしい価値となった。以前のように,熱狂的な買い手が,セビリャ・ツーリング・セダン(STS)か,割増料金のツーリング・クーペユニット付きのエルドラード−それが,“ETC”(エルドラード・ツーリング・セダン)を作った−を選択した。どちらの選択でも,安定したサスペンション,16インチのホイールについたより幅の広いタイヤ,比較的少ない外側のクローム,そして,より運転者志向のコンソールの付いたキャビン,フロント・バケットシート,電子デジグラフィック・インストゥルメントに代わってアナログ表示のものを意味した。 STSとETCは,93年,押し棒の4.9V-8が,純アルミニウムのノーススターに取って代わられたため,もっとわくわくさせた。最後のアランテに装備したのと同様に,この32のバルブ持ちは,消費者ガイド(Consumer Guideィ)テストで,0-60の所要時間を,およそ7.5秒に−以前より1秒以上速い−ノックダウンした295正味馬力パンチを,詰め込んだ。両モデルは,また,速度高感度パワーステアリングとオプションの道路感知サスペンションも手に入れた。基本的なエルドラード向けに現れたのは,低回転数で−低速度のぐいと引っ張る力で,ますます良い−特別の10フィートポンド(290に対して300)用に調整した特別な270正味馬力ノーススターが付いた3000ドルのスポーツ・クーペユニットだった。代わりとなる新しいスポーツ・アピアランスオプションがETCスタイルの外観を,たったの875ドルで提供した。すべての93年エルドとセビリャは,標準仕様の助手席のエアバッグ,小さなリアサスペンションの性能強化,そして,正常な状態に保つようにブレーキをかけるだけでなく,エンジンパワーを減速することもできる,改良されたトラクション・コントロールを享受した。 エルドラードのスポーツ・クーペユニットは,94年に中止となったが,ツーリング・クーペは,別個のモデルとなった。基本的なセビリャは,高回転力のノーススターを得て,SLS(「セビリャ・ラグジュアリー・セダン」)となり,道路感知サスペンションは,ETCとSTSの標準仕様となった。95年には,ノーススターの両方のバージョンは,5ホースパワーを得,全てのエルドとセビリャに,ETC向けのボディカラーのグリル(こうして4ドアSTSに匹敵したのだが)を含み,微妙なスタイリング・チェンジがあった。いかにもキャディラックらしい新しい標準仕様の機能:ワイパーと一緒に自動的にスイッチが入るヘッドライト。 全体で,新しい「パーソナルな」キャディラックは,そのマークに期待されたこと全て−それ以上だった。相応に,それらは良く売れた。実際,両方は, 91年から92年のモデルイヤー製造量を,エルドラードは31.000台を超えて,セビリャはほとんど44,000台に届いて,ほとんど倍にした。93年は,それぞれ約21,500台と37,240台に落ちた。おそらく,より高くなったノーススター・エンジンを反映して高くなった値札表示価格のためだ。しかし,1944年は,セビリャが47,000台近くまで,エルドが25,000台近くまで戻り,少し回復した。こうした数字は,80年代初期の売り上げと比べ物にならないが,80年代後期の生産量よりはずっといい。同じくらい重要なことには,これらの車は,少なくともいくつかのキャディラックは,今や,大いにかつ絶えず変化する自動社会のアメリカの基準を作ることができるということを証明したのだ。 大きな後輪駆動のブルーアム・セダン1992年の終わりまで,ほとんど変わらなかった。70年代後期の遺物であるため,それは,今や,まったく英雄のように装飾過多だった。しかし,キャディラックは,それを去らせるのは,気が進まなかった。なぜならば,前輪駆動車を欲しがらない買い手がいたから−そして,ブルーアムは,他のキャディラックより,一台売れる毎の儲けが大きかったから。そのうえ,それは,その部門が宣伝するのを誇りに思っていたように,アメリカで製造している車の中で,一番長かった。 ずっと前に支払いが済んでいる古いデザインは,キャディラックに,利益に食い込むことなく,ブルーアムを最新のものにすることを許した。したがって,1990年モデルは,長い間,この車用の最も大きなエンジンである,新しくオプションにした5.7リッターV-8で,より大きなパワーの要請に応えながら,標準仕様のアンチロック・ブレーキを手に入れた。それはシェビーから来て,割増料金のトレーラーで運ぶパッケージを必要とした。しかし,ばく大な正味馬力は,「ストレッチ・リム」販売業者たちに歓迎された。基本的な動力装置は,91年に切り替わった。140正味馬力オールズ307(伝説的な49年「ロケット」の最後の子孫)からシェビーの不朽の305になり,今や,170賞味馬力にアップした。同時に,5.7は,185賞味馬力まで押し上げられ,独立のオプションにされた。その他の大きな変更はなかった−1990年の34,000台近くから92年のたった14,000台未満への気にかかる60パーセントの売り上げの急落を除いては。 しかし,キャディラックは,まだ,「伝統的な」自動車に熱中していた。そして,大きな新しいフリートウッドを93年に送り出すことで,それを証明した。これは,基本的に,ブルーアム91年シェビー・カプリス風とビューイックの生まれ変わったロードマスターだった。もっともブルーアムの名前は,スマートな内部の装飾オプションに残ったが。スタイリングは,「フォーマル」なままだったが,より曲線が多く,より現代的で,たくさんの適用された装飾と通常の展開的な枡形ルーバーのある正面を持っていた。全長は,4.1インチ引き伸ばして225インチに,しかし,ホイールベースは,変わらなかった。運転整備重量は,余分の板金にもかかわらず90ポンドしか増えなかった。そして「エアバンク」−まだ標準仕様のフロントベンチシートに乗っている3人全部を守るのに十分な幅のデュアル・エアバッグのような標準仕様を加えた。プラスチックの燃料タンクは,重量を最小にする助けとなり,新しく標準仕様になったトラクション・コントロールは,悪天候で運転者が,安全に進路から外れないようにするのを助けた。 5.7も,93年フリートウッドの標準仕様だったが,94年には,連続的なマルチ・ポイント・フューエル・インジェクション(シングル・ポイントに代えて)を持った,シュブロレ LT1 5.7の新しい260正味馬力バージョンを採用で,さらに良い性能がよくなった。電子トランスミッション・コントロールもまた,付け加えられた。95年には,細部の変更だけが行われた。 大変どっしりとして華やかであったので,新傾向のフリートウッドは,30,000ドル半ばで,ほどよく価格をつけられた。したがって,比較できる大きさの輸入のラグジュアリーカーに対して,まったく安い買い物であった。買い手は,応えた。1993年モデルイヤーの生産高は,32,000台弱で,ほとんど倍になった。94年は,少し買い手が減った(27,000強)。暦の上の年出荷量では,1995年までに,約13,400台で,ブルーアムのレベルまで戻った(暦の上の94年より7000台少ない)。しかし,GMが,テキサス工場が,もっとたくさんスポーツ・ユーティリティー・トラックを組み立てられるように,1996年以降,全ての後輪駆動車を中止すると決定したため,売り上げ問題は,すぐに議論の余地があるものになった。それは人を,大きな古い群れの中の最後の大きなキャディラックとして,いつの日か,その最後のフリートウッドは収集されるかどうか,という思いに駆り立てる。比較的妙なことが起こった。 その当時の大黒柱の前輪駆動キャディラックについては,奇妙なことは何もなかった。それは,2つの別個の段階を経て発展した。第一段階は,良く知られた横帆のような装備の角ばったシリーズを,1993年以降,終わりにした。非常に重要なそれ以上の変更はなかった。小さいが,称賛に足る改善点の中には,92年のフリートウッドとド・ビル・ツーリング・セダン向けの標準仕様のトラクション・コントロールがあった。全ての93年モデル向けの速度高感度ステアリング&サスペンションがそれに続いた。フリートウッドの名前を大きな後輪駆動に移したとき,前輪駆動のフリートウッド・クーペは中止され,シックスティスペシャル・セダンを,唯一の上級志向の93年モデルとして残した。 そのスペシャルは,クーペ・ド・ビルと同様,翌年,姿を消した。こうして,これらのかつては誇りとしたモデルの名前が終わった。しかし,セダン・ド・ビルが,再設計されて復活した。それとド・ビル・ツーリングーセダンに取って代わるための新しいコンクール(古いシェビーの名前を借りて)があった。セダン・ド・ビルは,200正味馬力プッシュ・ロッド4.9 V-8を使い,コンクールは,270正味馬力ツインカム ノーススターだった。両方とも,93年フリートウッドの僅かに小さいバージョンのように見えた。そのため,セビリャのプラットフォームの新しいK−スペシャルバージョンの上に組み立てられたと思う人は,ほとんどいなかった。ホイールベースは,2.8インチ増えて,113.8インチになり(以前のド・ビルのセダンの長さに合うように),全長は,3.4インチ伸ばして,209.7インチになった。したがって,人と荷物用のスペースが大きくなった。スタイリングは,フリートウッドより少し「ズボンの中の折り目 」を持っていたが,むしろ丸ぽちゃの後部側面(スリムな垂直のテールランプも助けとならなかった)以外は,伝統的に,見栄えがした。 予想どおりに,新しいド・ビル/コンクールは,それらの前任者よりもいっそう強い印象を与えた。著しく少なくなったエンジンとロード・ノイズで,滑らかで,静かな遂行者。また,標準仕様の「エアバンク」システムにも,新しい安心させるものがあった。加えて,いつもの快適で便利な素晴らしいものの,腕の長さのリストがあった。コンクールは,実質上のホット・ロッドであることがわかった。消費者ガイド(Consumer Guideィ)が,0-60を非常に速い6.8秒と計測したのだ。そして,その標準のトラクション・コントロールと道路感知サスペンションが,ヨーロッパスタイルの操縦性とアメリカンスタイルの乗り心地を巧みに調和させた。以前のように,セダン・ド・ビルは,比較的年取った,あまりエネルギッシュではないドライバーに狙いを定めた。どちらのモデルも適正な量のプレミアム・ガソリンを使っていたが,それは,まだ,ほとんどのキャディラックの買い手の関心事ではなかった。驚くべきことに,ド・ビルの基本価格は,94年も変わらず32,990ドルで,コンクールは,ほとんど上がらず適正な36,950ドルでスタートした。 これにもかかわらず,多くの人は,キャディラックは,大したことのない奇跡をド・ビル/コンクールに行ったと感じた。そのため,おそらく,その部門は,売り上げが上がるどころか下がるのを見て,ろうばいしただろう。94年の損失は,巨大ではなかった−モデルイヤーには10,000台ぐらいで,120,000台強−が,暦の年の94から95年間の出荷量は,20,000台落ち,約111,000台になった。 たとえそうでも,ド・ビル/コンクールは,キャディラックにおける注目すべき,価値のある発展の5年間を仕上げた。その部門全部の車を,徹底的に,見事に新しいものに取り替えて,品質と工学技術に対するその部門の評判をすっかり復活させ,両売り上げと顧客の忠誠の利益になった。どんなことが未来にあろうとも,「世界の基準」は,再び,最も素晴らしい自動車を作ることで,正当に認められる−以上終わり。 |
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