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キャディラックの伝統・歴史 「人物沿革」 キャディラックは,今日では,無条件にアメリカの最も名声のあるブランドであり,その優越性は,第二次世界大戦の終わりからずっと続いている。キャディラックは,幸運にも,両大戦間の年月を通してずっとパッカードに刺激され,その有名なブランドが戦前の型を見つけ損なったとき,キャディラックが,異議を唱えようのない,洗練と発明,卓越した工学のチャンピオンとして現れたのは,1940年代の終わりになってからだった。 キャディラックは,その創始者が,ヘンリー・リーランドであることが幸運であった。彼の機械の完璧に対する情熱が,彼に『ミスター精密』という称号をもたらした。それほど打ち込んでいたので,キャディラックがそうした特有の印象持つまでに発展したのも意外ではない。そして,1917年に,リーランドが会社を去ったとき,彼が効果的に築いた基礎は,1909年に会社を買ったゼネラルモーターズによって,続けられ,磨かれた。 キャディラックが設立されたとき,リーランドは,59歳で,姿勢の良い,白いあごひげのある家長であった。そこで,彼の生い立ちや,1902年以前の人生は,我々の話に大いに関係がある。彼は,1843年2月に,ヴァーモント州バートン近くの農家で生まれた。有名なイギリス人のインドへ派遣された宣教師の名前をとって,ヘンリー・マーティンと名付けられた。クエーカー教徒の両親は,キリスト教の価値を教え込んだ。それは,彼の人生を支配することとなった。1857年に,一家は,マサチューセッツ州ウスターの南に引っ越してから,14歳のヘンリーは,町のクロンプトン−ノウル・ルーム製作所に年季奉公に出た。しかし,1861年に,南北戦争が勃発し,アブラハム・リンカーンを英雄崇拝していたヘンリーは,北軍を支持した。彼は,スプリングフィールド兵器工場に加わり,戦争行動に貢献することができた。それは,交換できる部品から構成部分を製造するという伝統が染みこんだ産業であった。1867年に,南北戦争が終わると同時に,リーランドは,コルト・リボルバー工場に移った。そこでは,精密と規格化が合い言葉になっていた。1867年に,ウスターに戻り,そこでエレン・ハルと,結婚し,ガートルードとウィルフレッドの二児をもうけた。1872年,ヘンリーは,また,転職した。今度は,ブラウン&シャープという精密工具メーカーの有名な工場だった。そこで彼は,機械性の構成部分の製造に大変革を起こす運命のユニバーサル研削盤の開発するなかで,きわめて重要な役割を担った。リーランドは,1890年までブラウン&シャープに止まり,自分で事業を興すことを決心した。 彼は,これをデトロイトでした。機械店をその地に設立していた友人のチャールズ・ストラリンガーに刺激されたのだ。ストラリンガーを通じて,リーランドは木材の販売で財をなしていたロバート・C・フォルコナーに出会い,ブラウン&シャープにいたチャールズ・ノートンも一緒に,1890年にリーランド,フォルコナー&ノートンを設立した。ルシアン・シャープがヘンリーに2000ドルを貸したことから,ブラウン&シャープは,その投機的事業を是認していたようだ。ヘンリーは,それに自分の1600ドルを足し,必要な50000ドルの資本金のうち,40000ドルは,フォルコナーが出した。ヘンリーは,息子のウィルフレッドも,その事業に参加させた。ウィルフレッドは,最初は,医療に携わることを選び,その目的で,ブラウン大学に通っていた。しかし,父親の命を受けて,ブラウン&シャープで,機械工具ビジネスを学んで,貴重な一年を過ごした。それは,その後の時期,特に,リーランドが自動車の世界に入ったときに,彼にとって大いに役立つ経験となった。 リーランド,フォルコナー&ノートンの最初の拠点は,ベイツ通りとコングレス通りの角のストラリンガービルディングの4階にあった。リーランドは,最初から,リーランドは,精密を彼らの信条にし,全従業員は,この厳しい基準を満たすために,厳選された。製造旋盤や圧延機,ギアカッターに加えて,ヘンリー・リーランドは,その土地に増大する工学技術の会社に,コンサルタント業で,専門的技術を提供した。会社は,その形勢時期にそんな風に成長したので,1893年には,トロンブレー通りに,その目的で立てられた工場へ引っ越した。次の年には,ノートンが去り,会社は,リーランド&フォルコナーとして再編成されたが。L&Fは,知名度が上がるにつれ,高品質の鋳物を手に入れるのに苦労をした。そこで,自社の鋳物工場を1896年に設立し,そして同年,船舶と路面電車用スチームおよびガソリンエンジンの製作へと進んだ。 リーランドは,年月とともに高まった彼の事業,名声,地位をより強固にし続けた。大きな口ひげをつけたランサム・エリ・オールズの姿が,トロンブレー通りの工場へと向かったのは1901年だった。オールズは,デトロイトから75マイル(120km)のランシングの生まれで,スチームとガスエンジンを組み立てるオールズエンジン製作所を創設していた。(旧式の)自動車を,デトロイトで製作することを決心したため,1899年に,デトロイトに移り,オールズモーター製作所を創立した。彼が設計していた小型自動車用の変速機の開発をしているときに,リーランドの助言を求めたのだ。その結果として,リーランド&フォルコナーは,遊星歯車装置の中の部品の契約を得ることができた。6月には,その小型車用2000個のシングルシリンダーエンジンの注文がきた。一方,ドッヂブラザーズも同じ注文を受けていた。しかし,両方のエンジンが試されたとき,リーランドの開発したものは,3.7馬力で,ドッヂ製装置は,3馬力しかなかった。 この出力の変量−L&Fの許容誤差の少なさと優れた規格化の結果だが−に興味をそそられて,ヘンリー・リーランドはエンジンの改良に取りかかることを決心した。引き入れ口と排気管は広げられ,バルブを大きくなり,カムは,さらに精密になった。その結果として,この改良されたエンジンは,原型の出力の3倍近くである10.25馬力に発展した。リーランドは,改良したエンジンを,1901年にオールズの小型自動車が製造を始めていたため,大当たりとなったその曲線のダッシュボードの中に,それをつけてもらえないだろうかという希望を胸に,オールズの所に持っていった。しかしながら,オールズは,その考えをはねつけた。おそらく,機械を入れ替えるコストを考えてのことだろう。そして,曲線のダッシュボードの成功が,この賢明さを証明したことを述べておかねばならない。落胆したリーランドは,オールズがこの改良されたエンジンを必要としないのであれば,それなら可rじしんのオールズモービルにつけてみようと思った。 もし,リーランドが,1902年8月に,ウイリアム・マーフィとレミュエル・ボウエンの訪問を受けることがなかったら,事態は,そのままだったかもしれない。彼らの自動車会社は,財政的な苦境に陥っていた。1899年創立のデトロイト自動車会社のチーフエンジニアは,他でもないヘンリー・フォードだった。しかしながら,その関わりは,一時的なものであり,その会社は,ヘンリーフォード社と,改名されていたのだが,1902年に整理された。それは,リーランドが,予期せぬ訪問者を迎えた年だった。自動車事業で大やけどを負ったため,二人は,撤退することを望み,リーランドに,彼らのカス通りにある工場と設備の価値の調査を依頼した。ヘンリーは,承知したが,彼の改良したエンジンを使う機会があると悟ってのことだった。彼は,L&F工場に戻り,エンジンを彼のオールズモービルから取り外し,標準のリーランド&フォルコナー製装置と取り替えた。 最初のキャディラック ヘンリーとウィルフレッドは,大事なエンジンを,曲線のダッシュボードの後ろに縛り付けて,オールズモービルに乗って,ヘンリーフォード社の工場へ出発した。彼らは,エンジンを建物の中に運び込み,疑わしげな二人の経営陣と向かい合って,父の方のリーランドが,彼らは,自動車産業から引き下がると言うことで,大きな間違いを起こそうとしていると言った。自動車には,偉大な未来があると彼は信じていたし,何よりも,彼は,すでに,オールズで使われているものよりパワーが3倍にも発達し,交換可能な部品から大量に組み立てられるエンジンを持っていた。リーランドの雄弁が,その日は勝ち,取締役会も,そのまま自動車製造業者でいることを選択した。 無駄にする時間はなかった。それでその後8月中に,ビジネスは,再構成され,キャディラックオートモービルカンパニーと,新たに命名された。この名前の選択は,見事だった。なぜなら,それは,流行のヨーロッパを連想させ,17世紀の終わりに,フランス人で,自分で『海峡の村』と呼んだセツルメントを創設したモテ・キャディラックのアントワンヌ氏からとっていた。それがデトロイトにふさわしいものの始まりだった。新会社は,30000ドルの資本金で設立され,レミュエル・ボウエンが社長に選ばれ,ヘンリー・リーランドには,取締役会の席が用意され,いくぶんかの会社の株も持った。リーランドとフォルコナーは,新車用のエンジンやギアボックス,ステアリングの構成部分の供給を請け負い,一方,キャディラックは,シャシーと車体の製造し,それから車を組み立てることに同意した。この最初の車は,モデルAと名付けられ,後部に水平に取り付けられた水冷式単シリンダーの98立方インチ(1605cc)エンジンとエピサイクリック変速機のついたチェーンドライブの,その当時の典型的な軽装オープン車だった。この設計で,リーランドと彼のチームは,彼らのとても良く知っている曲線のダッシュボードのオールズモービルの影響を随分と受けた。 この車の作業は,1902年の9月に始まり,原型が,次の月の中頃までに完成した。それから,さらに2台のモデルAが製作されたが,その両方とも,1903年に開催されたニューヨークの自動車ショーで展示された。そのとき,印象的な車の2286の注文があった。本格的な製造が,3月に始まったが,組み立ての問題のために,1895台のモデルAだけが作られた。それは,見込みのある客が,彼らの車を待たされていることを意味していた。問題は,リーランドに起因するのではなく,シャシーが,もっと低い出力のエンジン用に設計されていることにあったことを言っておかなければならない。その製造は,車体の作業と同様,カス通りでのエンジンやギアボックス生産数に追いつくことができなかった。それから,工場に返品されてくる車もあった。これら全ての問題は,若い会社に大きな負担をかけた。事態が,危機に陥った1904年のクリスマスイブのその日,リーランドは,製造工程を完全に引き継いでくれないかと,経営上の取締役会の示唆を受けた。61歳のH.M.は,初めは乗り気がしなかったが,もう一つの選択は,キャディラックは,廃業し,彼は大切な契約を失うという,受け入れがたいものだった。こうして,1905年の10月,ついに,リーランド&フォルコナーは,キャディラックオートモービルカンパニーと合併することになり,この結果できた会社は,キャディラックモーターカンパニーと名付けられた。ヘンリー・リーランドは,総括責任者になり,一方,息子のウィルフレッドは,会計管理職を引き継いだ。モデルAは,設計し直す必要があった。そして,その後継者であるBは−1904年に生まれたのだが−,エンジンは,ほとんど変化がなかったが,横向き板バネ式フロント懸架と一緒に,新しい鋼鉄製成型型シャシフレームがあった。モデルAを悩ませていた欠陥は取り除かれ,出力は堅実な基盤に基づいていて,その代替品は,1905年まで続いた。それゆえ,単シリンダーをテーマにした変化が現れ始めるまで,長くはかからなかった。ホイールベースが短くなったモデルEが,Bに取って代わり,一方,モデルFは,側面に入り口がある車の後部分を持った。モデルKが,1906年に続いた。 単シリンダーモデルの成功は,生産台数の増加で実証され,3863台のキャディラックが,1905年5月までの1年に製造された。会社が,4シリンダーカーのモデルDを売り出して,意義深い一歩を踏み出すのは,その年であった。 後部に載せたエンジンを水平に置く単気筒エンジンと違い,この新しいモデルは,ヨーロッパ方式で,前部に位置する4つのシリンダーを垂直に載せた。900ドル前後で売られていた単シリンダー同時代のものよりずっと高い2800ドルだったが,ボンネット下には,301立方インチ(4932cc)のエンジンがあった。単シリンダーは,多シリンダーのライバルに次第に追いつかれながら,1908年まで続いた。しかしながら,モデルDは,わずか1年後に退き,より軽く安いモデルHに取って代わられた。1907年には,226立方インチ(3703cc)4シリンダの,キャディラックのもっと伝統的なエピサイクリック変速機ではなく,3足の従来型のギアボックスのモデルGが加わった。 この多様化にもかかわらず,キャディラックは,その製品に対する需要の落ち込みを経験した。1907年は,生産数が,前の年の3559台に比べて,2884台と急低下した。1908年は,生産高がまたも2377台に落ちて,さらに悪化したが,1909年には,生産高が,劇的に増加し,7868台もの車が販売された。この運勢の変化の理由は,大部分は,1908年の終わりにより安価なモデル30の発売に帰するだろう。これは,現存する単シリンダ全てに代わっただけでなく,4シリンダにも取って代わった。さらに,可能な限り高度な製造規格の固守にも関わらず,リーランドのコマーシャルの現実主義の印象的な推奨であった。実際,モデル30は,4シリンダーの改良点と性能を持ちながら,単シリンダーモデルの手頃な値段を提供していた。それは,モデルGのエンジンと変速機を使っていたが,たったの1400ドルで売られた。それは,1910年からの,キャディラックの唯一のモデルで,1914年に販売停止になるまで続いた。 1908年,キャディラックは,その国際的な名声に,最も重要な花を添えることができたが,それは皮肉にも,無骨な単シリンダーのモデルKのトリオによってもたらされた。キャディラックは,大西洋を渡って,フレデリック・スタンレー・ベネットという熱狂的な若い英国人によって輸入されていた。彼は,そのモデルの有益な広告を,こき下ろしていたが,ベネットは,リーランドの精密に作った構成部分の品質を照明するには,何か本当にセンセーショナルなものが必要だと確信していたのだ。そこで,1907年にキャディラックの工場を訪ねた後,キャディラックの交換可能な部品を強調する公開テストの監督をしてもらいたいと思って,ロイヤル・オートモービル・クラブ(RAC)へ話をもちかけた。強調しておかなければならないが,これは,エンジン構成部分が,正しく取り付けるには,時間のかかる手作業で削ることを必要とする時代のことである。しばしの討議の後,RACは,同意し,さらに,もしも,テストがうまくいけば,1904年に熱狂的なモトリストであるトーマス・デュアー卿とロンドン自治区タワーハムレッツの保守党議員よりクラブに贈られたデュアー・トロフィーに,キャディラックは,値するだろうことをほのめかした。ロールス・ロイスは,1907年にそのトロフィーを獲得したが,クラブが1908年の規定を発表したときは,キャディラックが,唯一の候補者だった。 ブルックランズでの勝利 その結果,1908年2月29日に,名高い顧問技師であるマービン・オッゴーマン率いるRACの技術委員会が,ベネット・アングロ−アメリカン・モータ・カンパニーの倉庫に到着した。そこで,彼らは,8台の新品の単シリンダーキャディラックの2シートの小型自動車を検査し,3台を選んだ。それから,その3台は,ロンドンのウエストエンドからサリー州のウェイブリッジまでの23マイル(37km)を運転された。彼らの目的地は,その前年にオープンした世界初の自動車レース用のサーキットであるブルックランズだった。コンクリート舗装のサーキット10周で,各車の走行距離が20マイル(80km)になる。これは,金曜日に行われ,それから車は,煉瓦造りのガレージに鍵を掛けてしまわれた。次の月曜には,ベネットの機械工たちによって分解され,この作業は,水曜日までかかった。どの車も,ナットやボルトひとつになるまで,バラバラに取り外され,そして,各キャディラックは,合計721の部品になったと記録された。フレームは,1つの車庫に置かれたが,他の全ての構成部分は,車体のも含め,混ぜ合わされた。それから,3つの山に分けられ,テストをより要求度の高いものにするため,89の部品は,取り除かれ,ベネットの店にあった新品のスペアに取り替えられた。そうして,木曜日に,組み立て工程が始まり,最初の車が,翌日の終わりまでには,1つになった。オイルや水,ガソリンが入れられ,始動ハンドルの最初の一回しで点火された。残りのモデルKは,翌週の火曜日までに完成され,水曜の朝11時半までには,1列に並べられたが,違うボンネットや泥よけ,タイヤを一緒にしたため,車体の色は,ごちゃ混ぜになっていた。それから,平均時速34マイル(55H)で,ブルックランズを500マイル(804km)回ることになっていたテストの最終部分を完了させた。その試験の後,2台は,再塗装され,販売できるようになり,もう一台は,6月に開催されたRAC2000マイルトライアルで,抜群の成績をあげた。 キャディラックが,1904年以来まだ3番目の受賞者であり,外国の製造会社では初めての受賞という名誉とともに,有名なデュアー・トロフィーを,受けたのは,1909年の2月になってからだった。英国人にとって,キャディラックの受賞が,アメリカの工学技術の質についての有益な教訓を与えるべきであったが,イギリス諸島にモデルTが押し寄せることで裏書きされたメッセージが,交換できる部品の製造によってのみ可能となる大量生産の素晴らしい効力を示すこととなった。大西洋の向こう側での勝利の結果として,キャディラックは,『世界の基準』という非常にふさわしい通り名をモットーとして採用した。 アメリカでは,キャディラックの発展と高まる名声は,並はずれた敏腕家のウイリアム・クラポ・デュラントの注意を引いた。1908年の9月に,彼はジェネラルモーターズカンパニーを設立し,はじめはビューイクをそれからオールズモビルを含んでいた。そして今,彼はキャディラックに注目していた。取締役会に打診があり,ウィルフレッド・リーランドが交渉者として任命された。会社の価値は,350万ドルと定められ,デュラントは,株で300万ドルを申し出た,が,会社は,キャッシュが欲しかったため,契約の取り決めはなされなかった。その後1909年,ゼネラルモーターズから,さらに打診があったが,この時までに,モデル30は,さらに売上を伸ばし,デュアー・トロフィーも保持していたため,キャディラックの価値は,10日間で,412.5万ドルに上がっていた。またしてもデュラントは,必要な現金を提供することができなかったが,彼の代理人の,アーノルド・ゴスが戻ってきて,キャディラックに5,669,250ドル支払った。その金のほとんどは,ビューイックから出ていて,ビューイックは,代わりにジェネラルモーターズの株を受け取った。所有権の移動は,1909年7月29日に完了した。デュラントは,リーランド親子を,彼らのデトロイトの自宅に訪問し,「彼らのものであるかのように」会社を経営し続けて欲しいと話した。彼らはまた,国内外で高まるキャディラックの評判で非常に重要な役割を演じた精密と規定の寸法通り作り上げる許容誤差に細心の注意を払い続けられることも保証してもらった。 モデル30は,1911年には,7868台から10071台へ増大した製造量に売上も調和し続けた。常に改良するというポリシーは,1910年の冬に起こったある出来事の後,より促進されることになった。それは,ある婦人が運転していて,デトロイト川にかかるベルアイランドへ向かう木橋上で,彼女のキャディラックをエンストさせてしまったそのときだった。まもなく,ポンティアックビルト・カーターカーの扇動者のバイロン・T・カーターが通りかかり,車をスタートさせることを申し出た。不幸なことに,その婦人は,点火を遅らすのを忘れ,エンジンがバックファイヤーを起こし,運の悪い良いサマリア人 は,始動ハンドルに打たれてしまった。その現場に,偶然,キャディラックのエンジニアの乗る車が現れ,車をスタートさせて,負傷したカーターを病院へ連れて行った。彼は,ああ,傷に続いて生じた合併症の結果,死亡してしまった。ヘンリー・リーランドは,その知らせを聞いたとき,深く心を痛め,キャディラックは,もう一人もこんな風に殺したりはしないと宣言した。リーランドは,ただちに,彼の技師たちに,電気の始動システムを設計するように指示した。が,彼らが思いついた装置は,実用には,大きすぎた。そこでH.M.は,専門教育を受けた電気技師であるチャールズ・F・ケタリングに頼った。彼は,まもなくデイトン・エンジニアリング・ラボラトリーズ・カンパニーを設立し,のちに,その頭字語であるDelcoで,世界的に知られることになっていたのだが。ケタリングは,すでに,till を作動させるための小さく,強力な電気モーターを開発してあった。電気始動装置の基礎となったのは,これである。そして,1911年2月に,初めて明示された。キャディラックの技術者たちとともに,ケタリングは,その時,ヨーロッパ発のコストのかかる高圧磁石発電機に取って代わる,コイル点火装置を開発した。点火と充電セットを結合させたとき,1912サーティーは,『クランクのない自動車』として売り出された。この有益な装備品は,このモデルの売り上げを確実に押し上げた。1912年には,12708台に,翌年には,17284台に上昇した。が,しかし,1914年には,1908年以来のキャディラック生産数の最低の7818台に,劇的に減少した。この状態の理由を,正確に指摘するのは,難しくはない。サーティーの4シリンダーエンジンは,ピアス・アロー&パッカードの6シリンダーに追い抜かれ,ライバルのブランドがDelcoの点火始動装置を取り付けるまでに長くはかからなかったのだ。 リーランドにとって,彼自身の6シリンダーを作るという誘惑は,かなりなものであったにちがいないが,1915年,彼らしいことだが,もっとずっと野心的なものを選んだ。それは,V8エンジンがついた自動車であった。キャディラックに使われている動力装置は,そのようなものだったので,その生産量は,他よりもはるかに増加した。それ以来,キャディラックは,ずっと,V8動力を備えた自動車を提供し,そしてこの装置は,野球や,紙吹雪,ポップコーンのように,アメリカらしさの証明となった。 1912年に,V8エンジンの製造を考えたのは,ヘンリーの息子のウィルフレッドであり,そのときに,チャールズ・ケタリングと彼の同僚のエドワード・A・ディーズが,その年のニューヨークオートショーでの調査後,ド・ディオンV8を購入した。このフランスの会社は,V8エンジン車をシリーズ製品として売り出した最初の会社であり,この注文付属品は,1910年から1923年までずっと提供された。Delcoチームは,このフランスの設計を注意深く分析してから,アメリカのホール・スコットV8航空エンジンを細かいところまで徹底的に調べ,そして,その彼らの慎重さの結果として,実験的なV8を製作した。しかし,おそらくV8が,最初にヨーロッパで成功したためか,キャディラックは,それから,彼らのためにV8を設計するために,グラスゴーのロイヤルテクニカルカレッジを卒業し,英国のダイムラーとネイピアで働いたことのある,大西洋の向こう側の技師,スコットランド人のマッコール・ホワイト博士を指名した。その結果生まれたV8モデルは,タイプ51と命名され(おそらく単に,そのモデルイヤーを反転させた)1914年の9月に売り出された。今や義務となっている電気始動点火装置付きの,314立方インチ(5145cc)LヘッドV8が,新しくがっしりしたシャシーに据え付けられた。会社は,別々に据え付けずに,一体化したギアボックスを使うことで,フォードモデルTに倣った。製造を止めたサーティーよりも,長く,幅も広かく,セダン型で2800ドルという同じ値段で売れた。1915年,フルに製造した最初の年は,20,404台ほども多くのタイプ51が組み立てられた。それは,1922年までの最高のキャディラック生産数となった。一挙に,このブランドは,アメリカの傑出したラグジュアリカーのひとつを製造して,ライバルを飛び越えた。このブランドは,さらに前進していた。しかし,キャディラックが,アメリカのナンバーワンブランドの名声を勝ち得るには,第二次世界大戦の後まで待たねばならなかった。 最上のV8 このV8の成功は,アメリカの他の自動車メーカーたちの注意を引いた。リーランドマジックを真似ようとしたがうまくいかなかったピアレスやカニングハム,シボレーと言った会社だ。例外は,パッカードだった。相手と同じ方法で,世界で最初のシリーズ製造のV12エンジンモデルであるツインシックスを製造することによって,キャディラックをうち負かした。これは,もっとずっと大衆向けのシックスと,両大戦間を通じてずっと,うまくキャディラックの能力を試すこととなった直列8シリンダエンジンへの道を整えた。 とかくするうち,V8は,頻繁に改良されていた。タイプ51は,53と55に道を譲り,1918年には,57が続き,エンジンに固定されたシリンダーヘッドは,取り外せるものに取って代わられた。1917年に,アメリカが第一次世界大戦に参戦すると同時に,V8は,アメリカ軍だけではなく,カナダ軍やフランス軍の幹部用自動車に使われた。1918年11月に戦争が終わると,キャディラックは,ビューイックからのリチャード・H・コリンズを新しい社長兼総括責任者として迎えた。忘れてはならないことだが,キャディラックは,ゼネラルモーターズの重要な部門であった。そして,1910年には,ウイリアム・デュラントの奔放とも言える事業への取り組み方が,難局に瀕して,合併という事態をもたらした。このため,9月に,ニューヨークに本拠地を置くチェイスマンハッタン銀行の事務所で緊急会議が開かれることになった。父の方は,ヨーロッパに行っていたので,ウィルフレッド・リーランドが出席した。銀行家たちは,損する前に,損する事業は中止して,ゼネラルモーターズを一か八かにゆだねることに賛成だったが,リーランドは,キャディラックとGMの長期的に見た利益を,そのミーティングで,証拠立てて主張した。午前2時半ごろ,形勢は,リーランド支持に向かい始めたが,支持は,デュラントの退陣と,銀行家たちに指名された人が会社の舵取りを引き継ぐことを条件としたものだった。この生き残り計画は,実を結んだ。しかし,銀行利子は,ビリー・デュラントの発明の才とは,取引の交渉をしていなかった。そして,彼は,彼が1911年に創立していた車としてのシボレーモデルを使って,1915年にゼネラルモーターズに戻ってきた。その結果,彼は,1916年から再びGMの財産を管理していた。 その結果,デュラントは,彼をゼネラルモーターズから追い出すために,リーランド親子は銀行家側についたと思ったため,ビルと彼らとの関係は,いくぶん緊張していた。しかし,リバティ航空エンジン製造についてのヘンリー・リーランドとデュラントの議論で,決定的な打撃が生じた。1917年,アメリカの設計者たちは,V12の連合国側の軍事力での使用を考えた。だが,平和主義者のデュラントは,キャディラックによるその製造を認めることを拒否した。1909年に彼が保証した完全な自主を,公然と反対する拒否権だ。リーランド親子には,自分たちが造った工場を辞めるほかはなかった。そしてすぐに,H.M.の大切な英雄であるアブラハム・リンカーンにちなんで名付けたリンカーン・モーター・カンパニーをデトロイトに設立した。その最初の役目は,リバティを製作することだったが,1920年には,リンカーン車が,現れた。もちろんV8だ。その後の歴史は,この本のふさわしいセクションに書き留められている。 平和の到来と同時に,キャディラックは,その資産を統合し,ヘンリー・リーランドが去る前に用意した,クラーク通りの名声のある新しい工場で,作業が始まった。会社創業時から使っていたカス通りの機械一式は,フィッシャー・ボディ・カンパニーに引き継がれ,1921年,キャディラックは,その新しい製造設備の中に移った。もっとも,新しい作業の最終段階は,1927年まで完了しないのだが。キャディラック車について言えば,V8は,以前と同じだが,続いていた。タイプ61は,キャブレーションを改良して,1922年に生まれた。一方,そのV−63,1924年の後継者は,4輪ブレーキを持っていた。これは,シリーズ314が引き継ぐ1922年まで続いた。 このV8と,以前のものとの主な違いは,その寸法と容量314立方インチは,そのままだったが,エンジンの他の部分は,完全に設計し直された。これは,元のV8のなめらかな運転と信頼度による名声にもかかわらず,時速40マイルでは,不調に苦しんでいた事実の結果である。これは,1面ではなく,結合されたバランスウエイトを追加して,大いに改良された2面のクランクシャフトを取り付けることで解決された。これらの改良は,1913年に入社し,1923年に上位の役職を引き継いだ,キャディラックの新しいスウェーデン生まれのチーフ技師,アーネスト・シーホルムによって引き受けられた。1925年の改良された314は,新しいシャシーも採用した。1914年以来,初めてのフレームへのメジャーチェンジだった。やや流行遅れの機能であるプラットフォームリアサスペンションは,不要とされ,もっと月並みな半楕円形のものに取って代わられた。この結果シリーズ314は,軽量化され,前任者よりスマートな見かけとなった。 314の到来にもかかわらず,キャディラックは,この時までに,恐るべきパッカードからの挑戦を経験していた。1923年には,画期的なツインシックスをやめ,その一方,より小さなシングルシックスが1920年に生まれ,そしてV12は,新エイトに取って代わられた。この印象的な車の結果として,パッカードは,1925年に初めて,キャディラックに生産力で勝った。工学的見地では,キャディラックが,紛れもなく,ライバルより勝っていたことは,誰も否定しなかった。しかし,視覚的見地からは,ゼネラルモーターズの最高のものでも,外観が,やややぼったかった。それと対照的に,パッカードの控えめな,しかし,良く釣り合いのとれた車体は,それが,有名な先のとがったラジエーターシェルを完全なものにしたのだが,ずっとよく見えた。それに加えて,その時までにはフォードの所有になっていたリンカーンは,レイモンド・デートリッヒのデザインの才能の恩恵を受け,そのためにそれだけよく見えた。 キャディラックには,変更の必要性が明らかにあった。そして,1925年5月,1919年に,GM集団に引き入れられたフィッシャーボディーズのローレンス・P・フィッシャー部分的な社長を引き継いだ。アルフレッド・スローンが,GMモデル構成のトップれえるのキャディラックとビューイックの間に,埋めるべきギャップがあると考えたため,キャディラックは,法人組織の援助も受けることになった。ラ・サル,実際には,小さく安いキャディラックだが,作られ,17世紀に,フランス女王のためにルイジアナを併合した,フランス人の探検家であるルネ・ロエルト・カベリエ,シウ・ド・ラ・サルにちなんで名付けられた。このように,明らかにキャディラックの連想するものがあった。ラ・サルの車体デザインは,ローレンス・フィッシャーが,ロサンジェルスへの旅で出会った若き注文車体スペシャリスト,ハーリー・アールの仕事だった。適切なことに,アールは,303立方インチ(4965cc)のラ・サルのスタイルのインスピレーションとして,最高のフランスのイスパノ・スイザを参考にした。1927年3月に売り出されたが,それは,売り上げの可能性を押し上げるために慎重に設計された車体を利用した,初めて大量生産された自動車だった。その後,GMは,アールを,新しい色彩美術部の長に任命した。ラ・サルは,期待のスタートの後,荒れ狂う1930年代の間,ジグザグの運勢を経験し,1940年までしか持ちこたえなかったのだが。 キャディラックの次のモデル,341は,1928年に生まれ,明らかに,新しく発売されたラ・サルに似ていた。そして,新しい341立方インチ(5588cc)のV8エンジンがついていた。341の1929年の大きなニュースは,このモデルの3足のギアボックスへのシンクロ・メッシの導入である。この装置を取り付けたことで,ギアチェンジが,2回クラッチを切ることなくなされ,その結果,なめらかで,静かなギアチェンジとなった。これは,アール・A・トンプソンの仕事で,1922年にその装置の特許権をとった。彼は,オレゴンで働いているときに,このメカニズムを開発し,彼の兄弟がキャディラックのディーラーだったので,試しに彼の発明品を取り付けてみた。トンプソンは,明らかに粗削りな機械装置を持って,アーネスト・シーホルムの事務所へ現れた。しかし,その装置の可能性に強い印象を受けたキャディラックの工学チーフは,その発明者を,GMの新装置委員会に紹介したが,シーホルムのような先見の明は持っていなかった。トンプソンは,落胆したが,シーホルムは,そのアイデアを再度活性化し,その装置は,1929キャディラック341でデビューを果たし,他の自動車業界全てもそれにならって続いた。しかし,この意味のある科学技術の先駆けであるにもかかわらず,そのブランドの生産高は,1929年には,ほんの18,004台まで,前年の40,000台に比べて劇的に落ち,ラ・サルは,22,961台売れたが,これは,依然としてパッカードの47,855台より少なかった。 V16の誕生 1929年は,言うまでもなく,大恐慌の始めでもあった。しかし,アメリカ最大容量の自動車になることを運命づけられたものは,ラジオ放送で,12月に告げられた。それは,新しく,贅沢で革命的な452立方インチ(7406cc)キャディラック−世界初のV16エンジン車−で,1930年,厳寒の経済情勢の中で現れた。要するに,会社にとってのV8で2倍にあげる必要性は,キャディラックの金持ちでエリート主義の顧客のもっとヘビーでより精巧な車体構造の要求から起こった。これは,V8がさらにその前任者よりも40%のパワー増量することを必要とした。そこで,より大きな容量のものを選ぶのではなく,技師のオーウェン・ナカーは,非常に大切な低速度でのなめらかさを確実にするために,16シリンダーのついた,より大きな排気量のエンジン得ようと努めた。 なんと,びっくり仰天させる車だろう。長さ12フィート以上,重さ2.6トン,値段は6225ドル,5人乗りのセダン型,V16は,工学の勝利と美の達成の象徴であった。車内で最多の54もの車体バリエーションで,フリートウッドは売り出された。その以前も以後もうち勝つものがない姿。各バンクがアップドラフト・キャブレターを持つV16エンジンは,より伝統的なLヘッド型ではなく,オーバーヘッドバルブをつけて売り出された最初のキャディラックだった。従来,オーバーヘッド式は,騒音の問題で,避けられていた。そこで,油圧式ダンパーが,バルブがガタガタいう音を最小に保つために取り付けられた。これが,英国のロールスロイスやフランスのイスパノ・スイザに挑戦する目論見の車であった。それは,非常によく似ていたが。深まる大恐慌にもかかわらず,V16への需要は,1930年の6月までに,顧客に2000台の車が配送されて有望だった。それは,良いスタートだった。 しかし,キャディラックは,もう一つの策略を,いざという時のためにこっそり用意していた。7月には,16のV12バージョンが,現れた。そのシャシーは,大きい方のモデルのに似ていた。この車の詳細が,公表の前に漏れてしまったが,ところが,V16は,本当の驚きとして現れた。しかし,より小さな容量368立方インチ(6030cc)V12は,その年の終わりまでに,大きい方のモデルは3250台なのに比べ,5725台もの見本が組み立てられ,まもなく,16より多く売れた。それから,巨大なものであるV16にとっては,ずっと下り坂だった。1931年には,364台しか売れなかった。そして,その翌年から,キャディラックは,特別注文に対して,年に50台程度の生産量で,組み立てた。1937年に,製造が中止になったときまでには,合計3,878台のV16が販売された。振り返ってみると,このモデルは,間違った10年間に作られた正しい車と考えられる。1920年代の沸き立つ楽観の中で考え出され,過酷な大恐慌の最中に生まれ,その製造は,たぐいまれなゼネラルモーターズの資力によってのみ支えられた。より大衆的なV12は,合計10,821台生産され,同じく1937年に製造中止になった。 V8の生産は,1932年に維持されてはいたが,たった4,698台のキャディラックしか作られず,これは,1908年以来,最低の年間製造数であった。取締役会は,キャディラックを完全に廃止にすし,生産をより小さく安いラ・サルに絞ることを,真剣に考えた。この特別な会議は,ドイツ生まれで,キャディラック工場のマネージャーであるニコラス・ドレイシュタットに押し掛けられたということで意義深かった。かれは,そのブランドの生き残りを,情熱を込めて嘆願した。ドレイシュタットは,1912年に,メルセデスレーシングチームと一緒にアメリカにやってきていた。その後,キャディラックに入り,1923年に,サービスマネージャーになり,1932年に,ワークスの役職に就いていた。彼の10分間の,熱のこもった演説と生き残り案は,これまで未開発だった市場に売ることに関してだった。つまり,裕福な黒人の市場。当時の会社のポリシーは,ニグロへの販売は禁止していた。黒人は,白人にお金を払って,彼の代わりに,車を買ってもらわなければならなかった。委員会は,おそらくドレイシュタットの大胆さに驚かされただろうが,18ヶ月間,小さいが重要な黒人の市場を開発することに,許可を与えた。ともかく,ある程度の回復があったのが,2年後であったにせよ,ドレイシュタットは,認められ,1934年6月には,キャディラックの総括責任者としてローレンス・フィッシャーから,引き継いだ。 忘れてはならないことだが,大黒柱である,1930年からの353立方インチ(5784cc)のV8モデルは,徐々に発展を続け,1930年代に,ゼネラルモーターズが先駆けたもう一つのこと−年1回のモデルチェンジ−が,注目を引いていた。1932年,キャディラックの堂々とした,イスパノ・スイザに触発されたラジエーターは,改良され,以前より薄いトップが特徴となった。翌年,それは,塗装されたVの輪郭を示すグリルに取って代わられ,1934年には,車体の変化に応じて,より深く,角度がつけられた。機械的な最前線では,1934年モデルは,コイルとウィッシュボーンタイプのフロント独立懸架が特色をなし,またも,キャディラックの高度な技術面と調和していた。次の意味のある機械の画期的な事件は,1927年に発売されていたV8エンジンが,新しい装置に取って代わられた1936年にやってきた。これは,伝統的なアルミニウムのクランクケースと別々の単体鋳造を不要とし,ヘンリー・フォードの1932年V8流に,より安価な全鉄製の装置に取り替えられた。静かな運転のために,ハイドロリック・タペットが使われたが,折り紙付きのLヘッドは,残された。この装置には2つのサイズがあった。346立方インチ(5669cc)と322立方インチ(5276cc)のバージョンだ。1934年以来,キャディラックは,自社の車に,新しいモデル呼称を採用していた。モデルのエンジン容量を立方インチで表したシリーズ番号をやめて,代わりに,販売中の様々な車体スタイルのグレードに関係づけた。従って,この新しいV8は,シリーズ70と75に動力を供給した。一方,ビューイックと車体成形を共有するラ・サルに似ていた,112インチ(2844mm)のホイールベースの新しく,もっと安いシリーズ60もあった。これは,ニコラス・ドレイシュタットの製造に対するより実際的な取り組み方の表れであったが,1936年の改良では,全モデルに油圧式ブレーキを導入したが,低生産高のV16には,機械ブレーキを残した。 問題は,シリーズ60が,オーバーヘッド・バルブ式のV12よりも,無比のV16に比べても,速い車−最高速度が100マイル前後−だったことだ。この2つのモデルは,ぽつりぽつりと製造が続いていたが,明らかに,その終わりに近づいていた。しかし,不可解なことだが,キャディラックは,1938年のシーズンに,もっと単純化したものではあるが,別のV16を製造することを決定した。シリンダーのバンク間の135度の角度は,バルブがほとんど水平であることを意味してはいたが,新しいエンジンは,Lヘッドに逆戻りした。これが,ほとんど「平らな」エンジンを生み出し,その小さくなった431立方インチ(7062cc)の容量にもかかわらず,その前任者よりも強い,185馬力SAE に発展した。それでもやはり,製造の実用性と保守管理を目的として設計されてはいたが,前のV16の美的価値は,欠如していた。シリーズ90と名付けられ,製造合計数508台で,1940年まで作られていた。 しかし,1938年の最も重要なモデルは,見栄えのする4ドアサルーンで,アールの若いお気に入り,ウイリアム・ミッチェルによる設計のシリーズ60スペシャルだった。その良く均衡のとれた波立つラインと,ステップボードをなくしたことが,粋な,だが落ち着いた売り物を創作した。このモデルは,1938年に,最も売れたキャディラックとなり,翌年も同様だった。ドレイシュタットは,かき集められる限りのあらゆる売れるチャンスを必要とした。1937年,パッカードは,このブランドにとって,これまでの記録で一番の109,518台を売り上げたが,キャディラックは,やっと27,613台だった。この生産高の差は,2度と再びこれほど大きくなることはなく,1947年までには,キャディラックが,生産力で古いライバルに勝り,事実上,それ以来,ラグジュアリータイプでは,最高位に君臨している−ニコラス・ドレイシュタットのキャディラックの責務に対する賛辞として。 1941年には,シリーズ90V16とラ・サルブランドがなくなって,キャディラックの商品構成は,単純になった。ラ・サルに代わっては,パッカードの170/120ラインに匹敵する,もっと安いシリーズ61が出た。全ての車には,その時までに150馬力に押し上げられた346立方インチV8エンジンがついていて,社内のオールズモービルより1年遅れで,3速のハイドラマチック自動変速機が,オプションで,提供された。さらにもう一つの改良点は,エアコンディショナーの提供だった。これは,パッカードが1940年にこの設備をリストに入れたのに続いた。その年,キャディラックは,59,574台を組み立てた。それは,それまでで最高の数字だった。依然としてパッカードは,66,906台で,前方にいたが。 最初のテールフィン 第2次世界大戦へのアメリカの参戦とともに,1942年2月,キャディラックの自動車製造は,縮小され, 1945年の10月まで再スタートしなかった。もっともなことだが,この戦後すぐのモデルは,バンパー周りのその新しい包みでだけ,それと分かる,ほこりを払われた1942年デザインだった。加えて,商品構成も,基本的な4つのモデルだけに減らした。その中のシリーズ62の4ドアセダンが一番人気があった。総括責任者の地位に12年間在任してから,ニコラス・ドレイシュタットは,シボレーで同じ仕事を引き継ぐため,1946年6月に,退任した。おそらく,彼は,ゼネラルモーターズの社長の地位に狙いを付けていただろう。その後,その年に,彼は死んでしまった。キャディラックの彼の地位には,GMの社長になる運命にあったジョン・F・ゴードンがついた。 控えめだったが,その後,広く真似されたり,もっと大きくされたテールフィンで有名なシリーズ61と62が,姿を消すのは,1948年になってからだった。そもそもは,ハーリー・アールの1939年の特徴的な2テールツインブームのついたロッキードP38ライトニング戦闘機についての考察に,触発され,それに続き,プロペラボスフロントエンドや航空機のようなコックピットが付いた,多くの実験的な縮小モデルが生まれた。おそらく有難いことにと言えるだろうが,ただテールフィンだけが,製造するに至った。ハーリー・アールは,ゼネラルモーターズの一団の中で,キャディラック特有の顔を持たせるために,その特色を導入したのだが,他の製造者がこぞって,その考えに猛烈に飛びついたので,フィンのインパクトは無にされてしまった。最初の製造期は,現存していたLヘッド346立方インチ(2844mm)V8が,その新しい車に,動力を供給していたが,1949年1月にキャディラックの初めてのオーバーヘッド・バルブ式V8である新しい331立方インチ(5424cc)装置に置き換えられた。この新しいエンジン上の作業は,1937年に始まり,それは特に,その時準備中だった新しい高オクタン値の燃料を利用するように設計された。それゆえ,それは,3ベアリングではなく5ベアリングのクランクシャフトを持ち,ショートストロングのオーバースクエア動力装置だった。このエンジンは,元々は,309立方インチ(5063cc)だったが,オールズモービルがもっと力を発展させたV8を製造していると,キャディラックが聞いたとき,容量は,331に上げられた。その公表時には,圧縮比が7.5対1で,160正味馬力に発展していて,その当時,最も強力なアメリカのV8であった。そして,クライスラーが,その有名な「ヘミ」を売り出した1951年までは,最高位に君臨していた。それから,馬力レースが,本当に始まった。 その新しいエンジンの可能性を認めるまでに長くはかからなかった。そして,イングリッシュ・アラード会社が,自社の1950/51年製の輸出のJ2モデルに,その装置を取り付けた。1台が,会社の創立者であるシドニー・アラームが運転し,L.T.C.コールが交替運転手で,1950年のあの有名なル・マン24時間レースで,3位となった。同じレースで,コリエ兄弟に運転されたシリーズ62クーペが第10位,そのクリエーターのフィル・ウォルターに運転されたブリッグ・カニングハムのスペシャルボディバージョンがそれに続いた。 前述のクーペは,1949年に新しいボディスタイルで生まれていて,翌年,キャディラックの製造高は,100,000台の壁をはじめて破った。1950年代の広がり続ける繁栄は,1952年の実利的なシリーズ61の製造中止に反映された。自動変速機が,全ての製品で,標準仕様となった。1954年には,パワーステアリングが,クライスラーが最初にその装置を提供したのに1年遅れて,オプションとなった。逆説的なことに,キャディラックは,さかのぼって1934年に,この装置を取り付けることを考えていた。しかし,好ましくない経済情勢が,その使用を不可能にしたのだ。 エルドラド・エクストラバガンザ 1953年には,豪勢なシリーズ62エルドラド コンバーチブルが,生まれた。掛け値なしの7750ドルで売れた。その最も有名なバリエーションは,ブルーアルで,1957年に製造が開始され,1年後には,V8の容量が365立方インチ(5981cc)まで上げられていた。この伝説上の贅沢は,驚きの13,074ドルで売られた。ハーリー・アールが,彼の本物の全才能をこのモデルに惜しまず与えたためだ。それは,偉大なアール好みの,特徴的なブラシ研磨のアルミニウム屋根の4ドアハードトップで,ナッシュ&リンカーンと共有で,すぐに他の製造会社にも続かれた,ツインヘッドランプも付いていた。それまでにお決まりとなっていたテールフィンが,外観を完成させた。広いボンネット下には,365V8の325馬力バージョンがあったが,サスペンションは,やや個性的な,自動車には,初めてのものだった。このエアシステムは,正常に機能しているときには,見事でなめらかな乗り心地を作りだした。あいにく,このような高級車には許されない,確実性の問題があったため,704台のブルーアルしか売れなかった。このモデルは,1959年に,ピニン・ファリーナに完全に設計し直されたが,結果は,そのより波立ったラインにもかかわらず,さらに芳しくなかった。そして,1960年に,製造を中止するまでに,たった200台しか売り上げなかった。 主流のV8は,ますます素晴らしい数で,売れ続けていた。パワーは再び上がり,1958年には,310正味馬力になり,容量は,1959年に,390立方インチ(6390cc)に増加された。キャディラックのテールフィンが,その最もグロテスクの極みまで到達したのはその年だった。以後は,徐々に小さくなり,1965年には,完全に姿を消した。ハーリー・アールは1959年にゼネラルモーターズから引退し,会社の色彩美術部の長としての彼の地位には,ウイリアム・ミッチェルがついた。彼とキャディラックとのつきあいは,1938年の名高いシリーズ60スペシャルにまでさかのぼる。 生産高は,上昇し続け,ブランド用製造設備の劇的な拡大のあと,1964年11月,キャディラックは,3,000,000台目の自動車を造った。作業は,頻繁に正確なV8エンジンの改良を行っていた。そして,1963年に,その仕様に対する初めてのメイジャーチェンジに着手した。容量390立方インチとボア・ストローク 4×3.88インチは,そのままだったが,その他のエンジン部分は,広範囲にわたって変更され,作り直された装置は,その前任者より50ボンド軽かった。容量は,1964年に429立方インチ(7030cc)に上げられ,このサイズは,1967年まで続いた。翌年には,375正味馬力を発揮する,まったく新しい472立方インチ(7734cc)V8が導入されたが。 エルドラド・ブルーアルが,1960年にキャディラックの商品群から姿を消したにもかかわらず,コンバーチブルバージョンは,1967年モデルまで,続いていた。それは,前輪駆動のハードトップクーペに置き換えられた。1971年には,コンバーチブルもそれに続くのだが。ボンネット下には,標準の429立方インチエンジンだったが,ドライブトレインは,その前年に導入されたオールズモービル・トロナードのものだった。ウイリアム・ミッチェル風の車体は,当然,このブランド特有のものだった。このコンセプトで,1959年に作業は開始されていた。ラ・サルの名前を復活させようという考えも,もっと賢明な助言がうち勝つまではあったのだ。トロナードは,専用の製造ラインを,改造された古いクラーク通りの鋳物工場に持つという特徴があった。オールズモービルは,最初の2年間はエルドラドよりよく売れたが,1969年には,さらに改良したキャディラックが前に出て,そして,その位置に留まった。1969年に,エルドラドは,フロントエンドを変更され,1970年には,世界で製造されている最も大きい容量のエンジンである,500立方インチ(8193cc)の新しいエンジンをつけられた。あまり大きくない改良をしながら,1978年まで,この好調さは続いた。翌年には,驚異的な383,137台もの車が製造され,キャディラック史上最高の製造記録が生まれた。またも,このブランドのアメリカの素晴らしいのラグジュアリータイプとしての至上を強調して。 1970年代を通して,優越性は,増大する容量を重要視していたが,1975年には,エルドラドの500立方インチエンジンは,他の全製品でも利用できるようになっていた。その装置は,メルセデスベンツやBMWといった多くの外国のブランドによって,着実な増大を示していたが,1975年,キャディラックは,ゲルマンの挑戦者たちに対する答を明かした。これは,ビューイックの350立方インチ(5735cc)V8と,独自の電子燃料噴射が付いた単体構造のセビリャだった。 全般的に,エネルギー危機の結果として,エンジン容量は,下がっていた。1976年は,500立方インチV8の最後の年だった。そして, 1977年,より軽い燃料噴射式の425立方インチ(6964cc)V8が生まれた。1年後には,全てのモデルが軽量化され,1フィート短縮された。1979年,エルドラドは改修された。前輪駆動はそのままだったが,動力は,350立方インチのセビリャエンジンによって供給され,全独立懸架も使用された。セビリャ自体も,前輪駆動で進んだ。そして,1980年には,メイジャーチェンジを受けた。その一番明らかな変化は,1950年代の鋭くとがったロールスロイスを思い出させる傾斜した後部を持った新しい車体だった。 トップラインの425立方インチV8は,1979年を持ってその製造を終了し,翌年は,368立方インチ(6030cc)装置が標準だった。それからは,キャディラック車は,業界全体がそうだったように,小型化した。1981年には,252立方インチ(4130cc)V6エンジンで,前輪駆動の,112立方インチ(1835cc)4シリンダーエンジンとマニュアルギアボックス(この30年間で,この設備をつけた初めてのキャディラック)のついたシボレーJのラグジュアリータイプのキマロン が生まれた。新しい燃料噴射式250立方インチ(4097cc)V8は,1982年に生まれ,そのクラスの1985年の新しいデビルとフリートウッドモデルは,前輪駆動があった。しかしながら,フリートウッド・ブルーアルのクーペとセダンは,抑制力と調和の後輪駆動車として続いた。 今世紀初頭のこのブランドの重要な形勢時期に,『ミスター精密』のヘンリー・リーランドが捧げたその並はずれた品質を,キャディラックが,80年以上に渡って保持しているということは,感銘を与える偉業である。 |
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